三浦半島記01- 長なす美味しい。そして衣笠という意外な市街地
この長~いナス、三浦半島産なんですけど、フライパンでベーコンと共に焼いたらフワッと柔らかくて甘いのよ。
油も引かず、塩だけ軽くかけたけど、ベーコンの塩気で十分だったかもしれません。
めちゃ長いので、明日も明後日も食べられそうです。
・・・そんな野菜のある三浦半島は昔から畑作が盛んな地域でしたが、裏を返せばお米を作るのが難しかったんだろうなと、今回散歩して感じました。
海から急に盛り上がった台地の上が平らな畑で海風に吹き晒されているなんて、東北の内陸に生まれ育った人間としては理解し難い風景でした。
風は畑の上で空を切るだけ。
3年ほど前に散歩したときに渇きを感じたのですが、そのときは理由を深く考えませんでした。
平らな台地に降った雨は、すぐ海へ流れてしまうのでしょう。
さて、JR横須賀線の衣笠駅の近くにある衣笠城が、平安から鎌倉時代初期に三浦氏が滅亡するまでの本拠地だったと言われています。
商店街のエリアが大きくて、けっこう長いアーケードまであったのは意外でした。
しかし、なぜ海に面していない、むしろ半島の真ん中と言っても差し支えない衣笠を本拠地にしたのか?
1つ考えられるのは、国防というよりは田畑の開発拠点だったのでは、ということです。
田んぼが作りにくい土地なので、縄文時代には海沿いに魚介を獲って暮らす人々がいても、弥生時代以降は内陸にあまり人がいなかった可能性があります。
そこへ平安時代に入植した三浦さん(あえて入植と言ってみる)、領地とするからには開墾しないとね。
・・・という流れを想像しました。
面白いことに、平安時代の拠点は内陸だった一方、戦国時代の幕開けに北条早雲に滅ぼされた時の三浦氏の拠点は三浦半島の突端で海沿いだったんですよね。
平安時代の三浦氏が衣笠に本拠を置いたのは、軍事目的ではなく開発だったのでは、という視点からみると、平作川が目に入ります。
GoogleMAPから、川の両岸に貝塚が確認できました。つまり、縄文時代はその川は海だった訳です。
時代を経るにつれて土砂が堆積したり川が蛇行して沼沢地のようになったことでしょう。
そのようなポテンシャルのある川の流域、丘陵から平地に川が出るあたりに多少の住人がいて、そこから新田開発をしたのではないか。
そして衣笠は半島の真ん中付近であるために、東京湾と相模湾までの距離が同じで、さらに第3の方向として川があり、船で海へ出られたのではないか。
などと地図で想像してから実際に衣笠城跡へ行ってみたら、頭をかかえました。
衣笠城は、衣笠山にある訳ではなかった・・・
三浦半島の真ん中に堂々とそびえ立つ衣笠山ではなく、隣の尾根の奥まったところにありました。
なんでやねん、なんでやねん、
なんだか珍しく考察みたいになってしまったブログ記事ですが、長くなったので次回に続きます。
石橋山古戦場そして石垣山一夜城へ 小田原付近の旅
いちおう道順としては前回からの続きですが、あまり気にしないでください。
根府川駅から余裕をこいたために回り道して体力を消耗し、やっと来た良い景色の中で喉が乾きつつ、石橋山古戦場まで来ました。
根府川駅から素直に来れば5km程度でした。
写真が朦朧としていてすみません。
けっこうヤバかった。
階段を登り切ると佐奈田霊社という神社があります。
ここでやっと説明すると、石橋山の戦いとは1180年の源平合戦の緒戦で、伊豆の里で流罪になっていた源頼朝が挙兵し近場の平氏をボコった後、伊豆半島を脱出しようとしたときに平家方の追手に逆にボコボコにされた戦いです。
頼朝の味方だった佐奈田余一は、ここで壮烈な戦死を遂げ、のちに祀られました。
その古戦場がどういうところか訪ねてみた次第です。
根府川駅からしてそうだったのですが、山肌からストンと海に落ちる急斜面で、当時約300騎といわれた頼朝勢が全部集まれそうな空間など見当たりません。
布陣とか作戦とかいうよりも、敵味方が「通せ」「ここは通さぬ」で衝突したのがたまたまここだったのだと思いました。
味方が潰滅する中、なんとか頼朝が脱出できたのは幸運といえば幸運・・・要素を求めるとしたら、この急峻で複雑な地形が幸いしたのでしょう。
そして、当時この近くの湯河原~真鶴を領有していた土肥実平が、地形を把握していて僅かな味方を導けた可能性なども想像します。
(※後日注:この散歩の後、小田原駅の書店でゲットした本に、やはり土肥実平がキーだったという推論がありました。ですよねイエーイ)
この地形、箱根の外輪山の一部なんですって。火山が海から直接盛り上がったら、そりゃ急斜面にもなりますわな。
などと考えつつ、いよいよ近づく小田原の街を見ながら、次に目指すは石垣山一夜城というかその隣にあるパティスリーです。
海の向こうに小田原城が見えるよ。イエーイ
しかしまたここからが長かった。
相変わらず自販機は無いのです。
以前に一夜城を訪ねた記憶からすると、たしか山頂に近かった。ということは、ここからずっと登り坂であろう。
数メートル先の路上に突っ伏す自分の姿が何度も見えました。
疲れたときの道の先、道を曲がった向こうも容赦なくまた登り坂がありますよね。
時折見える小田原の海だけが救いです。
桃ジュース、レモンジュース、マンゴーソーダ、思い浮かべながら時には道端の縁石に座り込み、プルプルしながら汗だくでやっと辿り着きました。
そこで
「今日ダイビングしてきたんですか?」
と地元っぽい年配夫婦に聞かれたことは、しばらく記憶に残ることでしょう。
石橋山の戦いが1180年、そしてこの石垣山一夜城(パティスリーではない)が築かれて豊臣秀吉が小田原を攻略したのが1590年。
歴史に思いを馳せるとき、山を登りながら約400年の時を下ったことになります。ま飲み物のことしか考えていなかったけど。
石橋山の戦いで頼朝とともに戦った北条氏は後に鎌倉で政権を取りましたが、鎌倉幕府の滅亡と共に散り散りとなりました。
その約300年後、伊豆を経て小田原に城を構えたのが後北条氏となります。
その約100年後に小田原が陥落します。
そういえば、石橋山の戦いの頃の小田原はどういう状態だったんだろう。
文献は少ないようです。
石橋山の戦いの後、すぐ横の小田原をガゼン無視して房総半島へ渡った時代と、天然の要害として後北条氏のときに一気に重要拠点となった時代では、何らか流れの違いがあるのかもしれません。
という訳で、一夜城ヨロイヅカファームでスイーツ購入しました。
あと野菜カレーパンがすばらしくて、前回も買いましたが今回も買いました。
ビーフとスパイスの香り引き立つ濃厚たっぷりルウの上に、食感のしっかりした地元野菜を敷き詰めたパンは、カレーの箱庭や!
もうほんとすみません、内容があちこちで支離滅裂になったので、箇条書きにしてまとめます。
・根府川駅から石橋山古戦場へ、山肌をくねくねと行く道の景色が良い。
・ただし自販機は無い。
・石橋山古戦場は複雑な急斜面が海に落ちる場所である。そこは箱根の外輪山の一部である。
・ただし自販機は無い。
・石垣山一夜城のバス停近くにやっと自販機が一つある。
・石垣山一夜城の隣にある一夜城ヨロイヅカファームは、スイーツも美味しいが野菜カレーパンがおすすめである。
以上、よろしくお願いいたします。
根府川から石橋山古戦場への散歩
東海道線で東京や横浜から熱海方面へ行ったことのある人なら、根府川という駅を見たはずです。
そうです、なんというか、「ここで降りる人いるの?」という雰囲気の、ホームのフェンスの向こうに断崖そして海があるだけの駅です。
降りてみました。
駅の山側から見た海はこちらになります。
上の写真の右上にちょこんと出ているのが真鶴半島です。その先の三ツ石(半島の先の小さな黒い点々)まで肉眼で確認できます。
駅を山側に降りた途端に(山側にしか降りられません)ズイズイと斜面を登ることになります。
斜面の家と海、いきなり大好物の景色が現れます。
尚、2019年7月20日、長い梅雨の天候により全てアンニュイな写真になっておりますのでご了承ください。
根府川の駅を降りた正面にウォーキングガイドの看板があり、それに従って一旦山側へ行くヒルトンコースを選んでしまったのは、個人的には失敗でした。
私有地ということもあってかGoogleマップと道が合わず、駅前の案内板の道とも整合できず、海は見えず、高そうな建物と高そうな車がたくさん停まっている駐車場を見ました。こんな場所にそんなリゾートがあるのは意外でしたが。
敷地を何とか抜け出したら行き止まりの道にも複数出くわして、長雨で滑りやすいコケの斜面で転倒し、藪蚊をくぐり蛇を見ながら半泣きで歩くことになりました。
おすすめは、線路より内陸側で海岸線に沿ってくねくね行くほうです。
ヒルトンコースを脱出してから結局歩いて根府川駅までその道を辿って戻りましたよ。
私が求めていたのは、このような景色です。
斜面、家、その向こうに急に海。
私が求めていたのは、このような景色です。
海の向こうに小田原の街が見えます。
こういうね
こういう
と、歩いているうちに普通に疲れてきました。
海のキワキワには線路も交通量の多い道路もあるものの、マイナーな細い山沿い道には全く自販機がありませんでした。
このあと、かなりヨレながら石橋山古戦場を目指します。
長くなったので別記事とさせていただきます。
本日のグルメ紹介は、片浦レモンサイダー・・・散歩の後、小田原で購入したものです。
これがこのときに飲めたなら、散歩は天国だったことでしょう。
昔ながらの王冠付きガラス瓶(栓抜きが必要なやつ)で、果汁と砂糖と香料といったシンプルな原材料。ラベルのレトロな色合いといい自分の立ち位置をよく把握しています。
果汁5%、酸味控えめながらレモンの風味はたっぷりで、甘みのある落ち着いた味でした。
散歩の途中で飲めたら最高だったなあ。
7月7日、雨の材木座海岸でビールを
昔の勤務先の上司に
「ハワイに行ってもビーチに行かずに戦争博物館とか入りそう」
と言われたわたくしが、一人で鎌倉の海の家に行ってみました。
それは梅雨の明けぬ7月、冷たい雨の降る日曜日でした。
雨だけれどもビーチの手前の住宅地からサーフボードを抱えたファミリーが歩き、ビーチに着くと何か知らんけどサーフィン大会をやっていました。
何か知らんけど親戚がサーフィン大会に出ているみたいな顔で海の家に上がりました。
日焼けした金髪の日本人のお兄さんにビールを注文する際は、普段よりも滑舌に注意しました。
お店のBGMは日本語のレゲエっぽい曲でした。
コロナビール700円とチェダーチーズポテト500円を頂きました。
チェダーチーズポテトは来るまでに7,8分待ったので、きちんと揚げたてでした。
ポテト自体に塩味は無く、チェダーチーズソースのみに味を頼るのですが、なかなか濃い口の風味でちょうど良かったです。
灰色の海と空の間を滑るように行くウィンドサーフィンの帆が行き交います。
しかしわたくしが思いを馳せていたのは鎌倉時代でした。
昨晩から今日の昼にかけて、永井路子の『炎環』を一気読みしたのでした。
鎌倉時代黎明期、鎌倉に渦巻く野望や願いを数人の視点から描いた直木賞受賞作(1964年)です。
鎌倉を拠点に定めた源頼朝と政子ですが、頼朝の弟(阿野全成)と政子の妹(北条保子)も政略上で結婚したのですね。
第一線でギラギラする頼朝と政子に比べて何となく迂闊な雰囲気のある弟妹カップルですが、歴史を振り返ってみると彼らの動きも大きな要素だったのだなあ、と。
弟妹カップルの住居は「海沿いの家」とされ、もしかしたらこの材木座海岸だったのかも、などと考えつつ、歴史上の各事件が起きた年をスマホで調べます。ここ海の家だけど。
周囲の客層は、スポーティなおばさんグループ、日焼けカップル、やんちゃっぽい煙草おじさんといったところでした。
やや困ったのは、食べ終わった食器の片付け方が分からなかったことです。
店員に確認したかったけれど、レジには3人ほど並んでいて聞けず、客席に店員っぽい人がいてスマホ見ていたけどイマイチ確証がなく、それでも勇気を出して「食べ終わったのどちらに置けばいいですか?」と声をかけたものの、スピーカーからの日本語レゲエに掻き消されてしまい、仕方なくレジ横の空いているスペースに置いて出てきました。
途中までは順調だったのに、最後でコミュ障が露呈してしまいました。いや誰にも気づかれてないけど。
材木座海岸は鎌倉の中でも東端にあり、そこから真ん中の由比が浜へ向かって歩きました。
海の家、2,30軒はあるんです。
さすが鎌倉なのか、あるいは私が最後に海の家を見たのが昭和の時代だったからなのかは分かりませんが、オッシャレなのよ。
カリブ海かな?みたいな。
そうかと思うとタイをはじめ東南アジアンなフードを供する海の家もあり。
すなわち屋台村のような、お祭りのようなカリブ海のような、それらの良いとこ取りしてオンザビーチみたいな楽園ではありました。
また雨の週末になったら、次回はアジアンフードでオンザビーチしたいです。
あまりに寒くて客が少なく、持て余した店員さん達が通りすがりに
「雨だいじょうぶ?」
などと声をかけてくれたので、ちょっと地に足がついた気にもなりました。
さてビーチの雰囲気からは相当離れますが、本日のお気に入りショットを1枚載せておきます。
妙本寺は、あまり観光客向けにアピールしてはいませんが、ひっそりと散策できます。
鎌倉駅から10分ほどで行けるのですが、人通りは少なく、森閑とした佇まいを見るためについついこの「谷」へ向かってしまうのです。
何気にこの場所も、鎌倉時代初期に陰惨な戦いの舞台になり、『炎環』にも少し出てくるのですが・・・お寺になったのは悲劇の少し後で、そこからもまた新しい歴史が紡がれて行ったのです。
以上、お寺とビーチのギャップでした。
時間と空間の密度が高い鎌倉でございます。
ところでこの日も道に迷っている所で外国人に道を尋ねられ、撃沈してから鎌倉を後にしました。ありがとうございました。
群馬県太田市の金山城から栃木県足利市の鑁阿寺まで歩いてみた 後編(完)
これまで2回にわたり、太田市から足利市への道のりをお送りしてきました。
さて、新田氏と足利氏はどちらも源氏で、元を辿ると祖先は兄弟なのですね。
平安時代に彼らはこの北関東の隣合う荘園を管理することになります。
詳しい経緯はくんずほぐれつ、源氏だけど平氏と組んだりいろいろあって、鎌倉の北条政権ではお互いを牽制するように仕向けられたりした末に、ついに鎌倉時代末期に新田義貞 vs 足利尊氏が華々しく火花を散らしつつ幕府を転覆させました。
そんな2つの領地が現代はどうなっているのかを自分の目と脚で確認したかったのですが、なんか比較するのも難しいほどいろいろ違うという感想になりました。
まずお城ですが、太田市の金山城はイカつい難攻不落の山城であるのに対して、足利市の鑁阿寺は街の真ん中で平べったい平城です。
街の雰囲気も、太田市は工業の街で、工場や店や住宅が昭和の時代にガツンガツン建ったような雰囲気であるのに対し、足利市は同じ昭和でも工業の影が感じられず、どうやって人々の生活が成り立っているのか分からないほどノスタルジックな建屋が連なっています。
イケメンゲーム風にするなら
太田市 feat.新田義貞「素直に俺について来たら、金山から見える麦を全部お前にやってもいいぜ」
足利市 feat.足利尊氏「遥かな昔、渡良瀬橋で出会った気がします。あなたは夜空の星を織る姫でした」
なんだこれ。
で、せっかく徒歩で移動したのでその感覚を説明すると、たとえば足利の奉公先で「太田の屋敷に届け物をしておくれ」とご主人に頼まれたら、日帰りできなくもないけど1泊したいなあ、という感じです。
小走りと歩きで片道2時間ちょっとかかったので、令和の現代では横浜から太田までの電車移動の感覚と似ているかもしれません。
なんて、昔は渡良瀬川の堤防も整備されておらず、アスファルトの道もなく、氾濫原の泥道を草鞋で歩くのはけっこう体力が必要だったことでしょう。
などと考えつつ、現代の帰路はお寿司に発泡酒でございます。
ご当地の食レポが無くてすみません。
内陸を歩いたのにお寿司ですみません。
ペットボトルの飲料がとにかく美味しかった一日でした。
<本日の飲料>
・グリーンDAKARA
・綾鷹
・三ツ矢アップルサイダー
・クラフトボス微糖
普通に運動していないときにこの量を見ると、若干「うぷっ」となりますが、当日はどれもめちゃくちゃ美味しかったのです。
昔の人は水を汲める井戸か池の地図が必携だったかもしれない、などと思いを馳せながら3回シリーズを終わります。