読むめし

口で咀嚼するたけでは足りず、観念でも食べ物を愛でようとする人間

鎌倉を勉強中。お寺と花編

前回の記事では、御所の跡や木造建築についてつい考えこんでしまったので、今回はパッと、花の写真を載せておきます。

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ハギがもりもりしていました。

宝戒寺は鎌倉で「萩の寺」と呼ばれていて、9月から10月が見頃なようです。

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お寺ができてから600年や700年が過ぎれば、花も集積するのでしょう。

宝戒寺は1335年、あの足利尊氏が建てたのだそうです。

というのも、鎌倉幕府南北朝のゴタゴタのうちに滅亡してしまいまして、宝戒寺は北条家の屋敷跡だったようなのです。

北条さんはこの近くで集団でハラキリして鎌倉幕府が終わったのです。

南北朝の主人公・後醍醐天皇 with 足利尊氏が、弔いのために建てたお寺だと言われています。
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武家の屋敷は無くなるけれど、お寺は残る、やつもある。

花は美しく、訪れる人も多く、しっかり弔われているのではないでしょうか。

ところで、鎌倉にはたくさんのお寺がありますが(百あまりらしい)、観光客が訪ねる有名なお寺と、そうでもない普通のお寺と、そもそも一般公開していないお寺があるようです。

有料公開でもバカ高いところは無く、維持費と思われます。
儲けるためではないけれど、できるだけ多くの人が来て、仏の教えを理解したり感じたりしてほしい、というスタンスなのかもしれません。

そうなると特に昨今、一般の人々を呼び込むには、フォトジェニックであることが重要になってきたのではないでしょうか。

たとえば報国寺は、鎌倉で「竹の寺」として有名です。
もしかしたら、日本人より外国人の間で有名なのかもしれません。

どうも、特に西洋の人は竹の林に東洋的なものを感じるらしいのです。
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一方、明確な植物オブジェクトはなかったけれど、静謐な佇まいが印象的だったのは覚園寺です。
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こちらには外国人の姿はなく、日本人が何人か、木のベンチに腰かけたりしていました。

というのも、こちらのお寺は定時に境内を案内するサービスがあるのです。
所要時間50分とのことで、この日は参加しませんでしたが、時間に余裕を持って参加したいものです。

覚園寺は、元寇が二度と来ませんようにと願いを込めて13世紀の末に整備したお寺だそうです。

あと、初秋に綺麗だったのは海蔵寺かな。

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門の前に萩がブワーなって、掻き分けて入るものでした。

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本堂の前の花々も雨上がりの青空に映えました。

ここは鎌倉時代に大きなお寺があったらしいのですが幕府滅亡とともに消失し、のちに上杉氏が再建したそうです。

お寺の一つ一つに、鎌倉時代からの歴史と、今目に見えている花や石や、見えにくい何かを発見できたら良いですね。

鎌倉を勉強中。意外といろいろ残ってない編

鎌倉のことをあまりにも知らなくてヤバいと思いました。

前々回の記事にも書いたのですが、
・大仏があるお寺の名前を知らなかった。
・観音様とは何かを外国人に説明できなかった。
鶴岡八幡宮小町通りと、円覚寺建長寺しか知らない。その成り立ちを知らない。

という状態なので、勉強を始めました。

折よく「鎌倉検定」というローカル検定が11月の終わりにあることを知り、申し込んでみました。

検定の公式テキストをざっと読んでみると、八幡宮小町通りの他に様々な跡地があることが分かりました。
しかし、その多くは推定であるのが意外でした。

鎌倉幕府の御所は、鶴岡八幡宮のすぐ東隣にあったらしいのです。
しかしそこは現在、普通の住宅地です。

源頼朝が造った政府の建物は跡形もなくて、後世の人がおよその場所を推定しているのです。

現代の感覚だと、大事な場所は保存されると思うのですが、時代によってはそうとは限らないのですよね。
本気で昔は何があったのか分からなかったり。

鎌倉は、幕府ができて繁栄して、幕府滅亡して、そのあとは室町時代で「京都政権 鎌倉出張所」みたいな扱いがあったけど、室町幕府が崩壊するにつれて存在感を失ったのですね。

意外と東海道から外れた場所にあって、急峻な丘に山に囲まれて海にしか開かれていない場所なので。

そこにリゾートを見出したのが江戸時代と昭和の初期だったらしいです。

そんななので、幕府ができて町が栄えてから現代までの間にけっこう断絶があるようです。

というわけで、実際に訪れて、幕府の庁舎の跡や要職の人の邸宅跡を見てみました。
よく見ると、カッコいい石碑が立っています。

頼朝が建てたといわれる御所は、住宅地の中にあり、かろうじて現在は小学校になっているために「まあアリかな」と思える風情でした。
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頼朝の死後、微妙に数百mほど庁舎を移したようでその場所は一応小さな神社がありますけど、庁舎が1m四方な訳ありません。
周りは住宅地です。
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そのあともう一回庁舎の移転が数百mあったらしいのですが、その跡は住宅です。多少和風な風情はあるのですが。
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木造建築が燃える理由は

・失火
・放火
・落雷

が考えられます。
鎌倉は賢そうな人が住むイメージがあり、うっかり燃やしちゃったりしないのでは?と思いますが、武士の世を極端に表現すると

「あいつムカつくからブッ潰す」

の論理で動いていた部分もあるのですよね。

そんなことを思った鎌倉お勉強散歩でした。

ふらりと、小さなパン屋で米粉ベーグルを買いました。
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うーん、ベーグルというよりリング形の普通のパンのような食感でした。

お店も旧跡も、ちょいちょい細かいやつを見出せたら楽しみが広がりそうです。

伊勢佐木町の果てに何があるのか

横浜の関内駅付近から一本道で伸びる歩行者天国伊勢佐木町はけっこう長く続いています。

そういえばどこまで続いているのか、確かめたことはありませんでした。
だって奥へ進むにつれてあやしさの度合いが濃くなりますし。

そこで今回は、道が続く限り進むことにします。

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おなじみ(?)、関内駅側の入口からスタートです。

ゆずがデビュー前から路上ライブをやっていた松坂屋は2008年に閉店し、今や有隣堂伊勢佐木町本店だけが、「昔からある店」のようです。
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地元関連の書籍が充実していて、心の拠り所となります。

関内駅寄りのエリアは人通りの最も多い場所だと思うのですが、上記以外はチェーン店が入れ替わり立ち替わりの状況です。
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時を経て、観光客よりも地元の人のための街になった感があります。

チェーン店でも何でも、とにかくさびれず活気があるのは良いことです。

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チェーン店の並びの中に、カジュアルな中華料理屋がさり気なく混ざったりします。

ちなみに伊勢佐木ストリートの一本道を、左右どちらかに少しでも逸れますと、途端にあやしい世界になります。
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横の道には目をつぶりながら伊勢佐木町をまっすぐ進むと、しかし結局大きな道路を渡るにつれて意思疎通が難しそうな世界になって行きます。
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チェーン店も健在ですが、個性派のお店が見受けられるようになります。
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人通りはだいぶ減ります。
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50円のゲーセン「ピロピロ」、こわいけど、入口は物理的にとてもオープンです。
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「まーじゃんかふぇ」とか、随分カジュアルです。
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その先の小洒落た本格イタリアン、安くはないけど、以前訪ねて美味しかった。
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さらにその先、ストリートの両側にある富士見川公園を越えると、いよいよ居住エリアらしくなります。
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この奥に何かを期待する人はほとんどいないと思います。

おや、お三の宮通り?
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道は一本ですが、通りの名前が変わったようです。

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だいたい居住物件で、たまに個人商店が点在していました。

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山王橋で、大岡川を渡ります。
それまで大岡川は通りと並行していたのですが、川がカーブしたのですね。

いよいよアパート・マンションの視界から
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交差点の向こうで、ついに道が途絶えました。
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お寺の門と、その後ろに鉄道の高架があり、道はもうありません。

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道はないけど、お寺の門の上は京急の線路で真下に駐車場があり、その向こうにお寺への階段がありました。
なんだこの都市計画は。

既に一本の通りとは呼べない雰囲気だけど、お寺の門の脇で線路をくぐり、道なりに進むと、京急本線の南太田駅に着きました。
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駅前の小ぢんまりとした広場と、それを囲む小さなお店は、ちょっとした異世界感がありました。

昭和な喫茶
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一見さんの難易度が高いラーメン屋
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そして唯一お洒落なドイツパン屋
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ドイツパンを買って食べたところ、とても美味しかったです。
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プレッツェルクロワッサンは、バターの風味芳しく、皮の風味香ばしく、食感はしっとり。
何度も鼻にくっつけて嗅ぎました。


というわけで関内駅から2,3km、伊勢佐木町の終着はそれなりに素敵な小天地で、よかったね。


映画『関ヶ原』2017、いまいちでした

最近このブログでは、日本史に関する言及が増えてきたかもしれません。

日本史勉強中で、得られた知識を出力しておく目的があります。

また、知識がなくてアホだった状態を保存しておきたいのもあります。

このブログで2年ほど前にも書いたかもしれないのですが、私の日本史の始まりは静岡旅行→家康→小説『関ヶ原』でした。

なので、この映画を観ない訳にはいかなかったのです。

結果、けっこう寝てた。

映画を批評するつもりはありません。

どんな作品であれ、楽しめた人が勝ちだと思っています。

今回、私は負けまきた。

小説が楽しかったのに映画を楽しめなかった理由を書いてみようと思います。

その前に腹ごしらえ:

桜木町駅に隣接するビル「コレットマーレ」の中にある映画館と、同じフロアにあるスペインバルに入ってみました。
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ワインとガリシア風チキンとかいうのを頼んだらかなり多くてお得でした。ゆっくり映画を待てます。

さて、映画の話に戻ります。

ごく個人的に不満は、小説で気に入った登場人物がほとんど描かれていなかったという点です。

榊原康政さまは、徳川四天王の一角で、関ヶ原のときは、家康の嫡男秀忠に同行して別路中山道を行軍した将軍です。

徳川秀忠さまが、家康の東海道と別ルートで中山道を進んだら、強い真田軍に行く手を阻まれ関ヶ原遅参で家康が激おこ事件です。
その間をとりなしたのが榊原康政さまです。

映画では描かれていませんでしたよね?寝てたけど。

他に4,5人は、小説『関ヶ原』で魅力を見出したキャラクターが、映画でほとんど出ませんでした。

もう一人だけ言及するなら、堀尾吉晴さまも全く出ていませんでしたよね?寝てたけど。

関ヶ原の戦いの前、栃木の小山で、北の上杉討伐に向かう途中、西から石田が宣戦布告の状況で、さあどうする?石田につくの?徳川につくの?

という大名たち究極の選択シーンにおいて、「俺たちは徳川につくぞ!」と劇的な瞬間を演出した関係者の一人(その場に居合わせたのは息子の堀尾忠氏だけど)です。

小説『関ヶ原』の魅力はその場面に凝縮されていると言っても過言ではない。

なのにこの、「小山評定」シーン無しでしたか?寝てたけど。

それからそれから、北政所さまの面白さとか、書き始めると終わりがないのでここで区切ります。

小説『関ヶ原』は大名たちが究極の選択をする群像劇だったのに対して、映画『関ヶ原』は石田三成が忠義を通して負けました、という説明的な筋書きで終わりでした。

・・・

映画終わりには桜木町にて、ハッピーアワーのバーで300円の泡のお酒を飲みながら感想を書きました。
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映画の前と後にお酒を飲んで過ごせるとは、良い時代になりました。

クダ巻いてすみません。

歴史オンチをさらす 鎌倉編

勤務先の仕事の関係でドイツ人が2人日本へ来て、週末をはさんで横浜に滞在するというので、鎌倉を案内することになりました。

私は都合により、他の日本人2人がすでに案内しているところへ合流の形です。

スマホのメッセージのやりとりで、だいたい何時頃にここら辺にいるので来てね、というノリだったのですが、とんだ恥ずかしいことになろうとは。

「今、長谷の大仏を観ています」
「了解です。そちらへ向かいます」

で、長谷寺へ行ったんですよ。

秋の週末ということもあり、人出も多かったので、入口で再度場所を確認しました。

「門の前まで来たのですが」
「じゃあ通りまで出るから待っていて」
「通りというと、どのあたりのことですか?」
「店があるほう」
「うーん?」

しばらくウロウロしていると、またメッセージが届きました。

「もしかして長谷寺?」
「はい・・・?」
「こちら高徳院にいるから」
高徳院?何ですか?調べますね」

えー、鎌倉の大仏があるのは、長谷寺ではなく高徳院でした。

いやー、なんか人混みの流れが微妙だと思ったわー。

江ノ電長谷駅で降りて大仏を観るから、大仏は長谷寺にあると思っちゃうじゃないですか、ヤダー

「じゃあ長谷寺も観てみようか」
ということでドイツ人2名、日本人2名と共に入ったのですが、予備知識ゼロです。

長谷寺のメインは大きな黄金の十一面観音像でしたが、そういえば観音とは何でしょう?


という状態で、5分ほど無言で観音像を眺める人々。

スマホで検索しても、いまいちうまい説明に至りません。

「ホワット イズ カンノン?」
たまらず同行の日本人に確認する私。

「ホエン シー カムズ トゥ ザ ワールド、イット イズ THE END OF THE WORLD. 
「リアリー?!」
「あ、ごめん、違うかも。それ弥勒菩薩かも」

帰宅後に調べたところ、なるほど弥勒菩薩は釈迦の入滅してから56億7000万年に悟りを開く人とのことでした。

(でも別に弥勒菩薩が悟りを開いたからといって世界が終わるわけでは無いようです)

尚、観音は、菩薩が姿を変えたものなのだそうです。
十一面観音や千手観音などバリエーションは様々あり。
性別は不明。そうなのか。

で、菩薩とは、悟りを得る途中の存在だそうです。

悟りを得たら、如来となります。

なので、弥勒菩薩弥勒如来に進化するらしいです。

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写真は、長谷寺のお地蔵様です。ほのぼのしますね。
地蔵菩薩は、弥勒菩薩が悟るまでこの世で人々の願いを聞く存在なのだそうです。

で、ドイツ人たち、こんなジャパネスクな鎌倉見学しましたけど、食べたいものは肉!飲みたいものはビール!

でっすよねー。

ほんとすみませんでした。