読むめし

口で咀嚼するたけでは足りず、観念でも食べ物を愛でようとする人間

打ち寄せる波のような変遷: 柳井・下松・防府

以前の記事でも触れましたが、海運が盛んだった時代は賑わったけれども、海運の比率が下がるにつれて静かになった街が、瀬戸内海には結構あると思うのです。

 
山口県柳井市はそういう場所なのだろうと勝手に思って訪ねてみました。
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白壁の町並みは伝統的建造物として保護され、それはそれでこの町の顔としてあります。
お土産屋さんも調味料や小物など、なかなか楽しい。
 
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銀行跡の建物もカッコいい。
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白壁ではない町は、うん、静かな佇まいです。
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柳井市の名前の由来、柳と井戸です。ほんまかいな?
 
さて、時間の関係でここからは高速道路に乗ります。けっこう高速道路まで遠かったけどね。
 
たしか、美味しい牛骨ラーメンを食べたのは、下松(くだまつ)SAだったと思うのです、美味しい牛骨ラーメンを食べたのは。
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牛骨スープのラーメンは、下松界隈に根付いたグルメらしいです。
ビーフの風味とやや甘みのある澄んだスープ、おすすめです。
ちなみにトッピングのお肉は豚だったような。
 
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ベーカリーコーナーで何気なく買ったハンバーガーも、拳のようなハンバーグが入って美味しかったです。
 
市街地は訪ねませんでしたが、下松は海岸線と高速道路と新幹線が収束気味の場所なので、交通は便利かもしれません。
 
次は防府です。
 
瀬戸内海に面していて、山口県の中では最も広い平野を持つそうです。
それなら昔から要衝になりますわな。
しかも、下関と広島のだいたい中間地点なのだそうです。
 
菅原道真太宰府へ流される途中で立ち寄ったとのことで、大きな天満宮があります。
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あんまり本殿の写真なかった・・・
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木造のステージのような建物の向こうに防府の街が見えます。
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全然知らない二人連れと街。
 
それから、毛利邸も訪ねました。
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日本庭園ですが、造られたのは何気に明治になってからなんですね。
 
多分ここが防府の肝で、むしろ交通が便利すぎたために、江戸幕府から築城をダメ出しされてしまうのです。
 
それで、この場所は、幕府に編入された「水軍」の根拠地となります。
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そんな江戸時代が末期となり、この長州の力などで日本が大回転すると俄かに重要性が増し、明治政府ができると長州のトップであった毛利家の邸宅を要衝にしっかり造ろうということで、成立した場所のようです。
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先日、取引先の方に「防府なんて東京の人から見たら田舎でしょう」
と言われたので、
「行ったことはないので分かりませんが、カッコいい港の街だと思います」
とコメントしました。
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実際に訪ねて、少し歴史を調べてみて、その何となく持っていたイメージの根拠が掴めました。
 
交通の変遷や政策などで、打ち寄せる波のように栄枯盛衰を経た瀬戸内の街は、たぶんそういうのでカッコいいのです。
 

吉川さんの岩国という街

山口県岩国市にどんな歴史があるのか、江戸時代は誰が治めていたのか、そもそも城があったのかさえ知りませんでした。

錦帯橋、形はイメージできたけど、それが岩国にあるものだとは、訪ねる直前まで知りませんでした。

その程度の予備知識からの訪問です。

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何故こんな橋があるのでしょうか。

お城と城下町を結ぶ橋なのですが、間にある川が氾濫してたびたび橋が流されてしまうため、試行錯誤を繰り返した結果この形になったらしいです。

さて、江戸時代にその城主になったのは、吉川(きっかわ)さんで、戦国時代に中国地方をだいたい制覇した超つよい毛利元就さんの孫です。

ここでまた関ヶ原なんですが、西軍の総大将として担がれて、家康に敗れた毛利家は、ムギューっと中国地方の領地を縮められて山口県一つに押し込められます。

毛利家は石田三成率いる西軍と決まったものの、内部では元就の次男の息子である吉川広家が「東軍に付いたほうがいいんじゃね?」って家康と内応します。

結果的に家康にほとんどの領地を召し上げられた毛利家ですが、吉川さんに関しては、内応していたのだから東軍の勝利に貢献したとみなされて、江戸幕府から岩国を与えられました。

だけど、毛利側にしてみたら、吉川のせいで西軍敗けたんじゃね?
ってことで冷遇して、岩国は江戸時代が終わるまで毛利家から藩として認められなかったんですね。

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そういえば、毛利家には三本の矢の話がありませんでしたっけ。関ヶ原で次男の息子は東軍と内応するし、三男の養子である小早川秀秋なんかは、かの「風見鶏」として有名になるし、結局バラバラになったの?

三本の矢の逸話は、関ヶ原の約30年前、死の間際だった元就が、三人の息子を呼んで語ったといわれています。

その時に枕元にいたのは元就の息子の吉川元春で、その息子の広家は関ヶ原で東軍に内応したけれども、「西軍全部やっつけちゃって」ではなく、「たとえ西軍が敗けても、どうか領地は取らず、毛利家を潰さないで」と交渉をしていたらしいです。

小さくはなったけれども、そのおかげで毛利家は領地とともに存続した、という解釈もあります。

サンフレッチェがこういう帰結になろうとは、元就も考えていたのかどうか。

そういった、ちょっと特殊なポジションのお城だよ、と示す意味で、錦帯橋ユニークなイメージを人々に与え続けたのではないでしょうか。

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コロッケ食べる。蓮根入りで歯ごたえが良くヘルシーな感じです。
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お城は切り立った丘の上にあり、その下の平地部分は今では平和を絵に描いたような緑の公園になっています。
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どうでもいいけど、吉川元春って名前は往年のロックスターを混ぜたようでカッコいいですね。

見知らぬ土地で普通にガッツリ中華 in 徳島県

旅行に出ると、名物を食べてみたくなります。実際食べます。

しかし、情報もお店の選択肢もない場合は仕方ありません。
特に名物でもないものだって美味しいのです。
地元の人々は、毎日名物を食べている訳ではありません。

という訳で今回は、旅先だし日本国内だけど、ガッツリ中華をいただくぜ。

そこは、四国の内陸部で行政的には徳島県に属する場所、吉野川の中流域、美馬市というところのようでした。

吉野川の川沿いにあるカジュアルな中華料理屋にインだぜ。
だってビール半額って書いてあるし、地元の人々で混んでいるっぽいし。

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オードブルとして「揚げ鶏のサラダ」みたいなやつだったんですが、実質ほとんど揚げ鶏であり、サラダの定義について考えざるを得ない一皿でした。
鶏の衣に絡まるタレとマヨネーズが濃厚で、もはやサラダなどどうでもよく美味しい。

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バーンと赤辛い担々麺です。赤系の辛さのうえに山椒の刺激もきいています。

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肉チャーハンがすごかった。
肉そぼろ、角煮、豚生姜焼き風などの各種肉の上に黄身が乗って、それがチャーハンにかかっているのです。
これ以上強いチャーハンはなかなか思いつきません。

ところで、豚肉に黄身を乗せてトッピングするのは徳島のB級グルメの特徴なのでしょうか。
関東の人が認識している徳島ラーメンもそんな感じではないですか?
(実際には徳島には、肉と黄身のラーメンの他に2系統あるらしいのですが)


さて、そんな吉野川中流域に、綺麗な街並みがありました。
「うだつの町並み」と呼ばれています。

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昔の井戸ですが、ポンプを押すと普通に水が出ます。

明けて朝の散歩です。
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鯉のぼりのシーズンでしたね。。
書くのが遅くてすみません。
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この場所は、川沿いの藍の集積地として発展した町です。
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「うだつ」というのは、隣の家との間にある防火壁のことだそうです。
(写真を撮ったときはそこは意識していませんでした。。)

「うだつの上がる」という言葉は、防火壁を作れるくらいお金を持っているということから来たのだそうです。へええ

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母なる吉野川の水面スレスレ、贅沢にも(?)沈下橋を渡れます。

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遥かな四国山地を望む(たぶん)。

からの、山の中腹まで登ってみたり
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山中の吊り橋を渡ったり
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山腹の畑を見たり
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美味しい空気の中で、盛りだくさんの四国真ん中お散歩アクティビティでした。

お腹も呼吸も満腹です。

宇和島ノスタルジー、そして魚たち

前回と同じことを言いますが、宇和島の人々は、みかん畑の斜面に暮らしているイメージを持っていました。

 
意外と平地が多かったことは前回のレポートのとおりです。
 
ところで、瀬戸内海に面した街というのは、海運が主役であった時代に栄えた所が多いでしょう。
ここ数十年でできた新幹線や高速道路によって、海に寄りすぎていたり通路から外れることで人口が減った街は多いと思います。
 
宇和島はその中で、四国の西のポケットで巷の雑音から護られた自然地理的な要塞のような、そんなイメージも持っていました。
 
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電車の終着点であります。
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ここから海沿いの南へは、電車がありません。
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電車もここでゆっくり休むのでしょうか。
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時間が前後しますが、朝の海です。
 
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潮の匂いぶんぶん。
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路地
 
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路地
 
さて、お待ちかね(?)の食事です。
 
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お・さ・し・み
 
やはり白身の鯛とハマチが美味しいかったです。
身が引き締まって弾力があるのに脂が乗っています。これです、瀬戸内の魚は。
 
大分で関アジ・関サバが有名になりましたが、海峡を隔てただけの宇和島にも同じ魚が上がります。上陸地点が異なることから、名前が違うだけなのです。
それはもう、ぜひここで食べるべきです。
 
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温野菜+生野菜サラダには、柑橘系のドレッシングが程よくかかって美味しい。
 
柑橘系×白身魚は瀬戸内地方から九州(北部?)にかけて特徴的な取り合わせだと思うのですが、何故こうも美味しくお互いを引き立てるのでしょう。
 
共進化ってやつかしら。
 
そういえば、2つの素材を調理時に掛け合わせるのではなく、エサから柑橘系にして臭みを消したり鮮度を保つ養殖魚も数年前から開発が盛んですね。
 
下の写真はまた別のお店、回転寿司屋なのですが、しっかりした鯛を炙ったやつ、そりゃあ良いでしょう。
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こちらは、「ぜんご鰺」というものでした。地物っぽい感じを出しています。
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ぷりっぷりなのにジュワッていうハマチですよ。
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もうね、言ってしまいますけど、東京に帰ってからしばらくの間、たとえ半額でもお寿司を買いませんでしたからね。
しばらくしてから買ったけど。
 
では最後に、私が想像していた宇和島に近いイメージのショットをお送りします。
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みかんと海に囲まれた街は、宇和島城から見ることができます。
 
 
 
 

みかん色の宝石、それは宇和島

宇和島を訪ねるまでは、みかん畑の急斜面が西の海に向かって飛び込んでいて、みかん以外の人々は魚を獲り、宇和島東高校で野球をし、斜面に密集して暮らしているイメージを持っていました。

しかし実際に行ってみたら、けっこう平地に街がありました。

宇和島城から見た街は、しかしながら、島々の間を流れる海流のようでもありました。
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きっとそういうことだったんでしょうね。

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小高い丘の上にある宇和島城は、ラピュタのような空中庭園を思わせるものでした。
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復元だけど天守閣もあります。

この城は、築城の名手と言われた藤堂高虎がほとんど手がけたらしいですが、江戸時代のほぼ最初から最後まで城主として宇和島を治めたのは、伊達家です。

伊達と言えば、仙台の独眼竜ですよね。
(よーし、日本史が少しずつ分かってきた)

江戸時代の初代宇和島城主の伊達秀宗は、独眼竜政宗の息子です。

いろいろあって、宇和島に配属になります。
配属当時の宇和島は、いろいろあって荒れていました。

マッドマックス状態の地に赴く息子を心配し、伊達政宗は自分が最も信頼する腹心を宇和島の地に送ります。

「この人の言うことは、全て私の言葉だと思って従いなさい」
と。

山家清兵衛(やんべせいべえ)という家老です。

山家さんは、マッドマックス状態だった宇和島を本気で立て直します。

が、やっと立ち直りかけた頃に幕府から「大阪城を改修したいからお金と労役よろしくねん」の通達が届きます。

ああ、徳川幕府それが徳川のやり方です。

せっかくここまで苦しい中でもなんとかやってきたのに、これ以上の負担を支えるには、もう公務員(当時のそれっぽい人々)の給与を削るしかない。

そして政敵の恨みが顕在化し、山家さんは凶刃に斃れるのです。享年42歳。

この訃報を聞いた宇和島の人々の悲憤は相当なものであったことが伺えます。

山家さんの死は却って大きなエネルギーとなり、宇和島和霊神社」の創建に至ります。

へえ、そんな神社があるのか。訪ねてみよう、と思って付近まで来たのですが、なかなか見つかりませんでした。

なぜなら、想像の数十倍大きかったからです。
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えっ町1つ分くらいあるのでは。

それもそのはず、山家さんを始祖とした和霊神社は、中四国に分社があるようで、宇和島は総本山らしいです。

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そんな山家さんから立ち上がった街・宇和島は、江戸年間を通じて伊達家の所領となりました。

山家さんのおかげなのか偶然が重なったのか分かりませんが同じ家の藩主が続き、現代の宇和島はどこかノスタルジックで濃い潮の香りが漂います。

その様子は、長くなったので次の記事にて。