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読むめし

口で咀嚼するたけでは足りず、観念でも食べ物を愛でようとする人間

みかん色の宝石、それは宇和島

宇和島を訪ねるまでは、みかん畑の急斜面が西の海に向かって飛び込んでいて、みかん以外の人々は魚を獲り、宇和島東高校で野球をし、斜面に密集して暮らしているイメージを持っていました。

しかし実際に行ってみたら、けっこう平地に街がありました。

宇和島城から見た街は、しかしながら、島々の間を流れる海流のようでもありました。
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きっとそういうことだったんでしょうね。

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小高い丘の上にある宇和島城は、ラピュタのような空中庭園を思わせるものでした。
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復元だけど天守閣もあります。

この城は、築城の名手と言われた藤堂高虎がほとんど手がけたらしいですが、江戸時代のほぼ最初から最後まで城主として宇和島を治めたのは、伊達家です。

伊達と言えば、仙台の独眼竜ですよね。
(よーし、日本史が少しずつ分かってきた)

江戸時代の初代宇和島城主の伊達秀宗は、独眼竜政宗の息子です。

いろいろあって、宇和島に配属になります。
配属当時の宇和島は、いろいろあって荒れていました。

マッドマックス状態の地に赴く息子を心配し、伊達政宗は自分が最も信頼する腹心を宇和島の地に送ります。

「この人の言うことは、全て私の言葉だと思って従いなさい」
と。

山家清兵衛(やんべせいべえ)という家老です。

山家さんは、マッドマックス状態だった宇和島を本気で立て直します。

が、やっと立ち直りかけた頃に幕府から「大阪城を改修したいからお金と労役よろしくねん」の通達が届きます。

ああ、徳川幕府それが徳川のやり方です。

せっかくここまで苦しい中でもなんとかやってきたのに、これ以上の負担を支えるには、もう公務員(当時のそれっぽい人々)の給与を削るしかない。

そして政敵の恨みが顕在化し、山家さんは凶刃に斃れるのです。享年42歳。

この訃報を聞いた宇和島の人々の悲憤は相当なものであったことが伺えます。

山家さんの死は却って大きなエネルギーとなり、宇和島和霊神社」の創建に至ります。

へえ、そんな神社があるのか。訪ねてみよう、と思って付近まで来たのですが、なかなか見つかりませんでした。

なぜなら、想像の数十倍大きかったからです。
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えっ町1つ分くらいあるのでは。

それもそのはず、山家さんを始祖とした和霊神社は、中四国に分社があるようで、宇和島は総本山らしいです。

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そんな山家さんから立ち上がった街・宇和島は、江戸年間を通じて伊達家の所領となりました。

山家さんのおかげなのか偶然が重なったのか分かりませんが同じ家の藩主が続き、現代の宇和島はどこかノスタルジックで濃い潮の香りが漂います。

その様子は、長くなったので次の記事にて。