読むめし

口で咀嚼するたけでは足りず、観念でも食べ物を愛でようとする人間

アイランドホッピングの海

アイランドホッピングという言葉は、数年前にフィリピンのオンライン英会話教室で知りました。

島々を巡ること自体を楽しむ旅やアクティビティというのでしょうか。多島海ならではの遊びです。

東日本に生まれ育って暮らしてきたせいか思いつかなかったのですが、瀬戸内海って、アイランドホッピングを楽しめるじゃありませんか。

仕事で広島営業所を訪ねたときに、岡山の出身でシーカヤックをやっている人の話を聞きました。

海を渡ると、島に着くんです。

シーカヤックは、東日本の人が想像すると、大海原へあてどなく漕ぎ出すイメージになりませんか。
それが瀬戸内海だと、島を渡るカジュアルな手段として想定できるんですね。

そりゃあ潮の流れなどもあって、それなりの技術は必要でしょうが、資格や免許は要りません。

・・・という話は聞きましたが、今のところカヤックは持っていないので、しまなみ海道を車で行きます。

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しまなみ海道は瀬戸内の5つの大きな島を辿る形で本州の尾道と四国の今治付近を結びます。

それだけでもアイランドホッピングの気分は味わえます。

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橋という巨大建造物の造形ひとつひとつも見ごたえがあります。

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塩ソフトは、ソフトのグルメに馴れてしまった舌には「まあ普通にアリかな」という味でしたが、下がコーンフレークになっていたのが嬉しかったです。

しまなみ海道の5つの島にはそれぞれ有料道路の出入口があり、それぞれの島を楽しめます。

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島の中の、ツツジ咲く丘の展望台なんて、夢の世界のようでした。

あと、写真には収められませんでしたが、それぞれの島にしっかり町があり、数百か千くらいの家や役場や店があり、本州の山間部よりよほど町でした。
島の方々からすれば「何を失礼な」と当然のことなのかもしれませんが、瀬戸内の感覚に慣れない人間は「ここにもここにも、町がたくさん!」と連続で驚きました。

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時間の都合で残念ながら、瀬戸内の海に長らく君臨した海賊、ザ・村上水軍の博物館に寄ることはできなかったのですが、次回しまなみ海道を訪れたらきっと行くでしょう。

複雑極まりない潮の流れを、それゆえに支配した人々の視点は、アイランドホッピングの際に携えて行きたいものです。

外部の人にとっては恐怖や困難である対象を、我が物として自在に使いこなせたら、気持ち良いことでしょう。

そして平和に橋を渡れる現在、海から目線の国の景色は、このGWの旅の中で最も美しいものでした。

シリーズの途中ですが、紫陽花の写真をば

6月5日(日)に関東地方も梅雨入りしましたね。
分かりやすく紫陽花が咲いています。

5月上旬の連休の旅を思い出しつつ、かなりゆっくりGWの旅シリーズを更新している最近の当ブログですが、紫陽花が咲いてしまったのでこの週末の写真を載せておきます。

6月4日(土)、関東地方の梅雨入り前日の晴れた午前中は、砧公園から野川へ下り、そこから川をさかのぼりました。

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陽光に透きとおる紫陽花を撮りたかった。

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夏らしい翳と

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珠のような花か何かと

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ビターテイストな路地の宝石と。

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優しい紫

うーん正直、写真的にはもう一歩なのですが、初夏の小川沿いは足を止めたときの風が気持ち良かったです。
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紫陽花は梅雨時の涼ですよね。
いかにも涼しげな色と構造です。
これが暑苦しい花だったらどうでしょう。

暑苦しい花とは何だろうと考えたのですが、なんかこう、モコモコしてるやつとか。

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逆に考えると、梅雨時に涼しげに咲いている花を残したのは、もしかしたら人間か、何らかの生物なのかもしれません。
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そんなことを考えながら、川沿いをテレテレと走ったり歩いたり止まったりです。
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野川の旅、この日は中央線の東小金井から帰投することに決めました。

ふと、駅ビルのSunmerry'sというパン屋さんに入ったら、興奮してパンを4つ買ってしまいました。

写真を撮らないうちに食べてしまったのですが、エビトマトクリームとモッツァレラのカルツォーネは、たった200円で堪能できました。
カルツォーネは餃子が巨大化したようなイタリアのパンですが、中にエビトマトクリームなんか入っていたら、タプタプして齧ると溢れてくるじゃないですか。

ブラン入りロールパンは、80円なのに重量感と甘みがあり、そのままでも、ジャムやチーズと合わせても美味しいです。

それから、チョコのカップケーキみたいなやつ、
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見た目通りの濃厚さで200円かな。厚いチョコの層の下はチョコのケーキです。

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それからアップパイ、ありがたいことにハーフサイズが140円で食べられちゃいます。

Sunmerry'sは、埼玉を中心に東京北部・西部に展開する街のパン屋さんですが、もし近くにあったらヤバいっす。

って、途中からパンに熱くなってしまいましたが、そんな散歩でした。
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ちなみに野川は別に紫陽花の名所という訳ではなく、住宅街を通る川の横にぽつぽつ普通に咲いているだけです。
そんな野川の普通さが好きで、たまに走ったり歩いたりします。



水都で、おでん。松江の川のほとりで

前回は関ヶ原のエピソードから松江での邂逅をテーマに書いたので、今回は現代の様子を書きます。

 
松江は、予想以上に水の街でした。
 
訪ねるまでは何となく湖と海の近くにある街のイメージを持っていたのですが、実際に行ったら水郷でした。
 
水郷というとこれまで柳川や大垣の水路に魅せられてきましたが、それに比肩するものでした。
 
夜の川の水面は、湖のすぐ近くのせいか、落ち着いていてどこかロマンチックです。
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お城の周りのお堀の佇まいもまた安らぎます。
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街と一体になった水路の数々、たまりません。
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この水の都、元々は宍道湖とつながる沼地または湿地だったらしいです。
辛うじて高い場所に、砦のようなお城があったぐらいだそうです。
 
そこから街を作ったのがあの、堀尾さんです。
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砦のような城の場所を中心に、要は、
「水は水!土は土!」
と、ドロドロを分離する大工事をしたらしいです。
 
それでできたのがお城のお堀と、町中をけっこう規則正しく縦横に延びる水路なんですね。
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掘り出した土は、盛って高台にして造成地にします。一石二鳥です。
 
なにげに去年、ブラタモリでやっていたんですよね。
そして、宍道湖を隣の中海につなげて、中海からは日本海につながり、そのおかげで水量の調整ができるようになったうえに、宍道湖汽水湖になってシジミが獲れるようになりました。
 
もう天才ですかね堀尾さん。
 
戦国武将って、武勇もあるのに築城や治水・街づくりにも才能を発揮した人がいて、加藤清正伊達政宗が有名だけど、何なんでしょうね。
そんなに一人の人に能力が備わっているものなのでしょうか、部下がやったことなのでしょうか、というのが最近の興味の一つです。
 
それはいいとして、堀尾さんは松江の街の開祖として尊敬されているようです。
 
松江城の像についての文章を見つけました。
松江の人々の思い入れがあることが分かり、これまたなんだか嬉しくなります。
 
というわけで、そろそろ晩ご飯です。
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おでん。
 
しみじみと、水路のほとりのおでん居酒屋でいただきました。
 
つゆが、関東でも関西でもない、九州でもないのかもしれないものでした。
九州(福岡?)らしい甘みがある一方、軽くてほんのりという意味では近畿らしくもあり、ダシは飛魚ダシがメインの気がします。
東北出身・関東在住の人間から見ると、そうなります。
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春菊が具として入っているのも面白いし、美味しかったです。
 
それから、松江独特の料理として、おでん on うどんの「おどん」というのがあるらしいのですが、この日は夜遅かったこともあり、出会えませんでした。
 
あとは、シジミのワインバター蒸しとか、宍道湖の恵みを食べてみるよね。
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松江を訪ねるなんて、日々の暮らしの中では考えたことも無かったけれど、機会があればまた歩きたい、そんな湖と日本海の街でした。
 
 

元・日本史オンチが松江で見たもの

わたくし、歴史ファンはおろか、普通の人でさえ引くほど日本史オンチだったのです。


明智光秀石田三成を混同する。
 
・「加賀百万石」は何らかの誇張表現だと思っていた。
 
大阪冬の陣・夏の陣は誰かが戦国時代に戦った。
 
などなど、ほんの一部をお伝えしております。
 
従って、旅先で城跡を訪ねて、門の近くで説明を読んでも、「ふーん」という感想しかありませんでした。
地元愛から微熱を帯びる文章であっても、お城にまつわる登場人物を記憶できませんでした。
 
そんな私が去年(2015年)の秋から勉強を始めたきっかけは、静岡の旅でした。
(静岡の旅レポートは当ブログにございますが適当に流してください)
 
家康没後400年で盛り上がる2015年のと静岡を旅して、家康は意外と愛されていることが分かり、ベタに家康から日本史に入ろうとしたのです。
 
宝島のムック的な冊子を購入して読もうしたのですが、開始3ページほどで挫折しました。
関ヶ原の登場人物が多すぎて理解できなかったからです。
 
そこで知人より、司馬遼太郎の『関ヶ原』を読んでみよとのアドバイスを受けました。
これが面白かった。

 

関ヶ原(上)(新潮文庫)

関ヶ原(上)(新潮文庫)

 

 

 
2016年1月1日、年の始めの孤独なラン旅は家康と関ヶ原にちなんだ北関東の旅となりました。
(これも当ブログにありますが適当に)
 
家康が東北の上杉討伐へ向かう途中、宇都宮の手前で、三成が西から挙兵の報を受け、西に引き返して三成を討つことになりました。
 
名目的には三成のほうが官軍で、家康は賊軍ぽくなり、いよいよ西と東で大勢が二極化してきたけれど、宇都宮の手前まで家康に従軍してきた数々の諸侯たち、今後どちらに味方するかね?
 
という会議「小山評定」がありました。
 
東軍につくか西軍か、来たる会議で決めなければなりません。
 
迷える諸侯たちの中には、腹を括った人もいます。
 
堀尾忠氏、当時浜松の城主です。
家康が勝つと思うし、これまでのいきさつから考えても家康に味方するのが妥当な立場である。
負けたら無一文か死のみ、勝ったらどーんと得るためにはできるだけ大きく賭けよう。
 
じゃあ、これから西へ向かうなら必ず通るであろう浜松のお城と領地を、家康さんに全部あげちゃいます。
 
それを、会議「小山評定」の場で真っ先に発言するのだ。
 
秘策を胸に秘め・・・たはずが、その会議へ向かう道すがら、お隣の領地で気心知れた掛川の城主、山内一豊に喋っちゃうの。
 
すると、会議で最初に
「私の領地を献上します」
と山内さんが発言しちゃうのよね。
 
堀尾氏「えっ?えっ?いや僕も」
 
そうなると東海道上の諸侯たちは我も我もと続いて、東軍の勝利を近づけて行きました。
 
この功績により、関ヶ原の後に山内一豊は土佐一国をもいましたとさ。
この山内さんの話は、大河ドラマ功名が辻』で描かれたと思います(すみません、観ていませんでした)。
 
一方の堀尾さんはどうなったのか。
そこまで追いきれていませんでした。
 
ところで関ヶ原の戦いは、東西の諸侯ほとんど全員がその場にいるか、もしくは後方で関わっていて、その結果によって江戸時代三百年間ぐらいの領主の配置が決まり、ひいては明治以降の各地方を特色づけるものなんですね。
 
つまり、関ヶ原が分かれば地方が分かる。
 
関ヶ原でこういう活躍をしたから、この人はこのお城をもらった。
そういう視点でお城の解説が読めるようになりました。
 
さて、堀尾氏です。
 
先ほど登場した堀尾忠氏は、実は選手交代して間もなかった二代目です。
初代(?)の堀尾吉晴は、家康とほぼ同年に豊田市付近で生まれ、信長・秀吉・家康と戦国武将の主役たちを主軸に、協力したり敵対したり、離合集散しながら生き延びます。
素人目には地味ですが、戦国の真ん中でしたたかに活躍した武将のようです。
 
悲しいことに、家督を譲った直後の忠氏はその後早逝してしまい、幼い孫が残ったために、戦国を駆け抜けて引退したはずの堀尾吉晴さんは、再び治国の舞台に上がります。
 
堀尾さんを待っていた国とは、関ヶ原の功績で与えられた、松江でした。
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お城を訪ねるまで知りませんでした。
 
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あの堀尾さんがここに?!
 
となりました。
 
築城の指示を出しているらしい銅像の貌は、面長でやや骨張っていて、私の想像とよく一致します。(どこかに書かれていたのかもしれません)
それが、得意げな笑みを浮かべて棒を振るっていたのです。
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(写真では見づらいですが、右に堀尾さん、左にお城があります)
 
銅像を見て安心するような、嬉しい気持ちになったのは初めてでした。
 
ちなみにこの松江城、幕末の混乱も戦争も生き延び、現代まで天守閣が現存する貴重な国宝となっています。
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実は堀尾吉晴さん自身は、お城の完成目前で死んでしまうという、デキるのにとことん逃す人なのですが、笑みを浮かべてお城を向いている銅像から、地元の人に受け入れられ後世まで愛されたことが伺えます。
 
そんな銅像に出会った松江でした。
 

無茶振りからの進化 - 呉の大和ミュージアム

行ったことはなかったけど、なんとなくカッコいい街だと思っていました。

瀬戸内の水軍の港であり、近代ではいかつい船をガシガシ造る、海とともに生きる街です。
 
2016年のGW中、土砂降りの中で立ち寄った「大和ミュージアム」は、老若男女で大盛況でした。
ところで私は、戦艦大和が呉で造られたことも、そもそも戦艦大和が何者なのかもあまり知りませんでした。
 
Wikipedia様から情報を得ました。戦艦大和とは:
・史上最大の戦艦
第二次世界大戦中に完成し、第二次世界大戦中に撃沈した。
・呉の造船所で造られた。
 
だそうです。基本的なことですみません。
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上の写真はミュージアムの目玉、戦艦大和の10分の1モデルです。

第二次世界大戦中の製造なんて、もうてんやわんやの間に合わせという想像をしております。
てんやわんやで物資が逼迫する中で、軍部からは工期短縮や仕様変更などの要請もおそらくあり、空前かつ怒涛の史上最大プロジェクトを完遂したのがこの呉の造船所なのだろうと、ミュージアムを観て感じました。
 
大和ミュージアム」というのは全国の人々に向けた分かりやすい通称であり、正式名称は「呉市海事歴史博物館」、実質は呉の歴史と人々の誇りを記録し表現した場所でした。
 
 
軍部からの無茶振りに応えるべく、本気で工期短縮に取り組んだ結果が現代の日本の様々な製造手法につながります。
しかも、工法や工程自体も要求の変化に対応して絶えず進化しました。
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この呉の戦艦大和の製造の際に明確に取り入れられた工法として「ブロック工法」が有名です。
 
おおざっぱに言うと、それまで船を造るときは端っこから順番に作っていたのですが、それぞれの部分ごとに並行して造って最後につなげた方が早いのでは?ということです。
 
この発想は世界各地あるいはこの造船の前後でもあったと思われますが、明確に意識して採用したのがこの大和らしいです。
 
私は不運にもIT業界の職を得たことが無いのですが、この戦中の「ブロック工法」は、モジュール化のような発想と似ているのかもしれません。
 
そういった非常事態下の本気が、現代まで連綿と通じて日本の工業製品の品質を支え続けている街なのだと、大盛況の博物館を訪ねて認識しました。

ちなみに、半導体チップのウェハを切断する超精密加工の(株)ディスコという会社が呉で始まり、現在は東京の大森・蒲田エリアに本社を構えていることも興味深いです。

やっぱりカッコいいなあ呉。