そうでした令和ですよ。藤原京より、遥か太宰府へ
奈良時代って、奈良に都があったんでしょ。
そう思っていた頃が私にもありました。
ええまあ、奈良にあったのですが、平城京のみが奈良の都にあらず。それより前には藤原京と飛鳥京があったのですな。
(Map by Googleです)
時代でいうと、飛鳥京 → 藤原京 → 平城京 となり、南から北へ順に移動しています。
補足すると、飛鳥京はぼんやりその地域のことを指し、天皇が変わるごとに少し中心地というか天皇の住居「宮」が移動したそうです。
また、飛鳥京の時代でも少しだけ大阪の難波京に遷都していたこともあります。
細かく見ていくといろいろあります。
古い都を知るにつけ、平城京がモダンな都に感じました。奈良盆地、おそろしい子。
さて飛鳥京は、低い丘に囲まれてのんびりした場所でした。
しかしここで、日本史を習うと序盤で出てくる事件が発生したと言われています。
写真は、飛鳥京の中でも板蓋宮という中心地です。
からの、大化の改新ってやつです。645年。
そうか、ここでもう蘇我氏は滅びて藤原氏の時代になるのですね。
考えてみれば、次の都が"藤原"京です。
やだー、平城京とか奈良の都が蘇我氏で、平安京に遷ってからが藤原氏だと思ってたー
藤原京の次の平城京なんてバリバリ藤原氏の都だったってことですね。今気がつきました。
事の次第としては、乙巳の変で蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子の腹心である中臣鎌足が藤原鎌足となり、ここから多少いろいろあったけど藤原無双の時代へ続きます。
いわゆる遣隋使ってやつで隋帝国の都を見てきた日本人は、これを真似てしっかりした永続的な都を作ろうとして、最初が藤原京なのです。
行ってみたらめっちゃ広くて、何組もの家族が思い思いの場所でサッカーやラグビーを楽しんでいました。
今回の奈良の旅で、マストだったのがこの藤原京です。
なぜなら、万葉集に頻出だからです。
特に大和三山である香久山・耳成山・畝傍山は藤原京を囲むように配置されているではありませんか。
下の3つの山の写真は、どれも藤原京の中から撮ったものです。
↓耳成山
↓畝傍山
↓香久山
春すぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香久山
持統天皇が詠んだ歌です。
この歌がそんなにすごいのかよく分からんが、来たぜ香久山。
ちなみに天武天皇が藤原京を作り始め、次の持統天皇のときに遷ってきました。
その喜びのような気持ちも入っているのでしょうか。
香久山でもう一首
忘れ草我が紐に付く香具山の古りにし里を忘れむがため
大伴旅人の歌です。
役人として大宰府へ赴任し、そのときに詠んだと言われています。
「忘れ草を衣服の紐に付けよう。香久山のあった故郷を忘れるために」
といった意味です。
私は藤原京に立ってスマホで香久山の歌を調べていたのですが、藤原京をあとしにて3時間ほどしてから思い出したのです、
- 大伴旅人って、令和の文章を書いた人じゃん。
大宰府で宴会して、綺麗な月の夜にこんなポエムを詠み合いました、という文章が「令和」のもとです。
すなわち元祖・令和おじさんです。
元祖令和おじさんが遥か大宰府から、いっそ忘れてしまいたいと想ったほどの藤原京に、私は立っていたのです。
令和元年の、大嘗祭の月に。
藤原京に立っているときにそれを思い出したかった。私の遅い脳みそよ。
しかも大嘗祭は天武天皇が始めたと言われていて、さきほど少し登場しましたが藤原京の計画と準備をした人で、それは大伴旅人の幼少期でした。
大嘗祭が始まる前に生まれていた人が「令和」って言って(正確には言ってないけど)、遥か時空を超えて現代の日本人も「令和」と言って、大嘗祭か何か知らんが祝っています。
万葉の旅は令和への旅だったことに、やっと思い至りました。
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さて、今回のグルメは法隆寺の目の前にあった少し昭和チックなレストランで、柿うどんと柿の葉寿司です。
法隆寺は飛鳥京-藤原京-平城京のラインから少し外れますが、行ってみました。
いずれの都も今は野原や田畑なのに、同じ時代にできたはずの法隆寺には現在でも普通に使える建物があって、これまたモダンだと感じてしまいます。もちろん建物は何度も建て替えたのですが。
柿うどん、そこそこ映えるけど、柿の風味は分からず。でもコシがあって美味しかったです。
そしてセットで付けられる柿の葉寿司は、鯖の脂が程よく身がふわっとしてました。
美味しい奈良グルメを食べることができて満足です。
奈良・近世の面影
人が歩けば古代ロマンにぶち当たる奈良ですが、江戸時代あたりはどうだったのでしょうか。
これも平城京跡でボランティアさんに聞いちゃいました。いやー聞き放題でしたなあ。
Q. 奈良城って、ありませんよね。でも東大寺や鹿のいる奈良公園と、この平城京の中間あたりには「ならまち」という昔っぽい路地の街がありました。あの辺には何があったのですか?
A. 現在の奈良市の辺りは、江戸時代を通してほとんど幕府の直轄地でした。東大寺や興福寺など大きな寺社勢力のお膝元に幕府の直轄機関を置いたのです。奈良奉行所という機関が中心となり、町が形成されました。
という訳で、「ならまち」は今、お洒落ノスタルジックです。細い路地が直角に交差する古い街並みに、ぽつぽつと小さなお店があり、前回の記事の古墳ケーキもその界隈に売っていました。
夕闇の後に小さな灯りが漏れるお店は、懐かしい映画のワンシーンのようでした。写真なくてすみません。
さて、次の近世は大和郡山城です。
前の古墳めぐりの記事でも言及しましたが、スマホのマップで古墳を見すぎると、大和郡山城もまでも古墳に見えてきます。
しかしネットでも、現地で人に聞いてもそういう話は無いのです。
大和郡山城は戦国時代に地元の勢力が作ったのが始まりとされていますが、戦国時代でも古墳のような場所の上に何か手を入れるのは禁忌のような感覚があったのでしょうか?
それとも、あったけどうっかり城を作っちゃった?
謎は残されたままかもしれません。
大和郡山は、古墳と古代ロマンの奈良盆地において珍しく近世の史跡であり、そういうアイデンティティがあると思いますので、城下町の跡などは別途ゆっくり訪ねたいところです。
明治維新のころに金魚を盛んに養殖して、現在でも金魚の池が多くあり、のんびり涼やかな風景です。
さて、街とお城の中世・近世を見てきましたが、今回とても癒されたのが、自転車で辿った細い道でした。
巻向付近から奈良駅の方へ、JR桜井線と国道169号線の間を、ときには折れますが基本的に南北にまっすぐ伸びる細い道です。
自転車で走ってだいぶ経ってから気がついたのですが、どうやら「上ッ道」を辿っていたようです。
上ッ道は、奈良時代には幹線道路だったのですが、近世では京都方面や奈良北部から三輪山や長谷寺、ひいては伊勢方面の道へ通じる信仰の道となっていました。
最高に気持ち良いしノスタルジックだなと走っていた場所がそういう道だと分かると、嬉しいものです。
古代ミステリーに満ちた奈良の中で、奈良の近世の面影は誰が何のために作ったのか・使ったのかが明確で、それはそれで海の中の浮島のように落ち着くものでした。
今回のグルメなんですけども、謎のモツ・・・検索しても出てきませんが、近鉄奈良駅近くの居酒屋で何気なく頼んで、美味しさに衝撃を受けたものです。あ、近世とは関係ありません。
脂がたっぷりくっついたタイプのモツですが、皮(?)の部分が薄くて天女の羽衣もかくやというほどに繊細でスジも無く、これは高貴な人がこっそり所望する珍味のレベルでは、とと思ったほどでした。
メニュー名はシンプルに「モツ煮込み」でした・・・ミステリー
古墳めぐりからの古墳ケーキですよ
古墳の周辺は、なぜか心地よいものです。
水辺と緑、そして手付かずというか太古に作られた山があり、時間がゆっくり流れています。
今回の記事では、巡った古墳を貼り付けて行きます。
まずは平城京の北に並ぶ3つの古墳から。
3つ並んだ古墳の右側はウワナべ古墳と呼ばれ、誰のものかは不明ですが、仁徳天皇の妃の一人と推定されています。
そこからコナベ古墳というこれまた不明な古墳の横を通り、左側のヒシアゲ古墳を見ます。
ここは仁徳天皇の妻の磐之媛の古墳と考えられていて、古墳特有の(現代に作られたであろう)門みたいなのが付いてます。
野鳥観察のようなおじさんが2人いました。
なるほど、鳥は古墳の内側にいれば少なくとも人間に危害を加えられないのです。
それから平城京を経て(だいぶ楽しんだ様子は前回と前々回の記事にて)、垂仁天皇稜(推定)を見ました。これも立派。
そこから南へ1kmほど行き、大和郡山城に立ち寄りました。
Googleマップで奈良の古墳に見慣れると、大和郡山城も古墳に見えてきてしまうのですが、ネットを検索してもそのような記述は見つからず、ボランティアのお姉さんに訪ねても「そういう話は聞いたことありませんねえ」ということでした。
そこから自転車で天理を経由し、巻向(まきむく)方面の崇神天皇稜へ。
このすぐ南に景行天皇稜もあるのですが、見る場所が分からずでした。
そしてこの日の最後は巻向の箸墓(はしはか)古墳です。
誰のものか謎なのですが、最古の古墳であり卑弥呼のものだったのでは、という説もあるミステリアスな場所です。
現代では原型も不明の小山で、水堀ではなく干潟が山の下に広がっていました。
それから、古墳といえば翌日になりますが畝傍山の北東にある神武天皇 畝傍山東北稜を見てみました。
数えたら、拝礼所から森の部分まで4つも門がありました。
つまりかなり立派です。
神武天皇は初代天皇で、もちろん存在は証明されておらず、この古墳は明治時代になってから「おそらく畝傍の辺りだった」ということで整備したものだそうです。
このように、今回巡った古墳はいずれも実在が疑問視されているか、誰のか分からないものでした。
自転車で巡れる範囲であちこちに、重要な古代ミステリーが配置されている・・・この森はほとんど永遠に破壊されないのだろうという妙な安心感がありました。
さてお待ちかね(?)、ごちそうは古墳ケーキです。
やっほーい
大きさは、下のトレーがスマホぐらいの大きさなので、一人で軽く食べられます。
お店のHPはこちら:
中身はガナッシュクリームで土を表し、カシューナッツで宝を模している、のだと思います。
周囲の円筒埴輪はメレンゲのロールです。
一つの夢が叶いました。
平城京は聞きたい放題 2
自転車でスルーするはずの平城京跡に2時間居てしまったことに伴い、ブログも2回に及びました。
今回は主に木簡の話をします。
いや何が面白かったかって、普段人にものを聞く時はまずググるし、「知らないなんてバカだと思われるかな?」というおそれも正直ありますが、この平城京では僅かな疑問でも頭に浮かんだ瞬間に質問して良いのです、たぶん。
(上の写真は朱雀門から南の広場を見たところです。ここにも数人の説明ボランティアさんがいます)
木簡は奈良時代を知る貴重な資料ですが、公式的な木簡もあれば、メモ代わりに書いて捨てちゃうのもあったんですね。
紙が高級だったから薄い木片を使った訳で、古代の人だってメモしたいし終わったらポイッと捨てちゃう。
で、排水溝やゴミ捨て穴みたいな所に小さな木簡がジャラジャラ積もっていたそうです。
運良く現代まで残った木簡を、研究者の方々が悩みながら解読するのですね。
私が興味を持ったのは「荷札の木簡」で、列島各地から運ばれてくるお産物に年号と産地が書かれています。
こういうのがあると、パズルのように統治制度と年の変遷が分かってくるのでしょう。
奈良時代の各地の産物について、平城京跡の資料センターの展示がとても見やすかったのですが、ネット上では見当たらなかったのでググったところ、この記事が見やすかったです:
木簡が沈殿していた排水管はもともと建物の柱として使われていた木の幹で、内側をくり抜いたものだったりするそうです。エコですね。
エコといえば、
復元された第一次大極殿を我々は見ることができますが、
第一次ということは第二次もあり、聖武天皇が一旦平城京から別の都へと転々と遷都して、そのときに建屋の資材も新しい都へ運んで行き、やっと平城京に戻ってきて新しい場所に建てたのだそうです。
聖武天皇一人で4回も遷都するとか、現代の我々の想像を軽く超えるスケールです。
あまりにも小刻みに遷都したせいで、これまで遷都といえば奈良→京都という単純な認識しかありませんでしたが、平城京の跡地に立ってやっと聖武天皇がやらかしなさった途方もない距離感が得られました。
聖武天皇の遷都について、わかりやすかった記事はこちら:
さて、本日の食べ物は鯖のへしこwith日本酒です(食べかけですみません)。
日本酒は奈良の「往駒(いこま)」 をいただきました。
へしこって、ちびちび食べて直後に日本酒を飲むと、辛口のお酒でもまろやかに甘く感じるんですよね。
その変化を楽しみました。
保存食としてのへしことお酒は、奈良時代からの楽しみだったのかなあと思いを馳せながら。
平城京跡は聞きたい放題 1
2019年11月下旬、奈良へ行って参りました。
平城京跡は、レンタサイクルで北から南へとさっくり通り抜けようと思っていたのに、ハマって2時間ほど過ごした話をお伝えします。
何がすごかったかって、だだっ広い平原の上にぽつぽつ復元建屋などがあるのですが、中に入るとたくさんの説明ボランティアさんたちが待っているよ。
簡単に通り抜けるつもりだったのですが、一度聞き始めるとどんどん質問してしまうよ。
Q1. 平城京跡は現在、広大な空き地のようになっていますが、民家などは外側へ移転したのですか?
A1. いいえ。平安京に遷都した後は田畑になり、現代まで家は建ちませんでした。
この事実だけで新鮮でした。
なるほど、現代と違って人口が少ない頃は、平らになった土地がお米チャンスに見えるのでしょう。
家など隅っこに建てれば良い。
お米ファーストです。
Q2. 民家は建たなかったけど、線路が史跡の中を通っていますね。なぜですか?
A1. この近鉄の線路は約100年前にできました。当時は平城京の範囲がもう少し小さいと考えられていたのです。線路は敷地内でゆるくカーブしているのですが、それは100年前に想定していた平城京を避けるためでした。まあ、世界遺産の中を通る電車というのもいいじゃないですか。
そして現在の平城京跡には第一次大極殿という建物が威風堂々ありまして、これは平成22年に完成した復元建築なのだそうです。
今でこそ山奥のドライブインにも鮮やかな赤を使った建物なんかありますけど、ここのはガチで研究者が本気出して再現したものですからね。
「こんなにデカいんです、もっと、まだまだ、すんごく」
と天皇に説明したのではないか、なんて想像しました。
現代の我々から見ても、建物の威容とそこから見える都の敷地の広がりにおののきます。
今ならもれなく無料の建屋から広場を眺めて王朝貴族気分が味わえます。
ちなみに第一次大極殿ということは第二次もあり、少しだけ南東に移りました。
というのも、平城京を作ったあとに聖武天皇が一旦また遷都してしまって、第一次大極殿の資材も新しい都にけっこう運んだらしいのです。
やっと平城京へ戻ったら、新しい区画で新築にしたのですね。
などとつらつら書いているうちに長くなってしまったので、次回つづけて平城京メモを公開します。
食事は近鉄奈良駅近くのアーケード街のカジュアル居酒屋にて。
奈良漬けを食べておきましょうということで、奈良漬けクリームチーズをば。
発酵食品と発酵食品を掛け合わせて発酵ブンブン風味にむせそうになるのがクセになる。
奈良は内陸だから、保存性の良い食品が多かったのかな、奈良漬はいつ頃できたのかな、そんなのも平城京跡で聞いとけばよかったかな、などと考えた一日でした。
追記:
ググったところ、奈良漬けは西暦700年ぐらいに奈良でできたらしく、まさに奈良時代の産物のようです。Wikipediaより。