人が歩けば古代ロマンにぶち当たる奈良ですが、江戸時代あたりはどうだったのでしょうか。
これも平城京跡でボランティアさんに聞いちゃいました。いやー聞き放題でしたなあ。
Q. 奈良城って、ありませんよね。でも東大寺や鹿のいる奈良公園と、この平城京の中間あたりには「ならまち」という昔っぽい路地の街がありました。あの辺には何があったのですか?
A. 現在の奈良市の辺りは、江戸時代を通してほとんど幕府の直轄地でした。東大寺や興福寺など大きな寺社勢力のお膝元に幕府の直轄機関を置いたのです。奈良奉行所という機関が中心となり、町が形成されました。
という訳で、「ならまち」は今、お洒落ノスタルジックです。細い路地が直角に交差する古い街並みに、ぽつぽつと小さなお店があり、前回の記事の古墳ケーキもその界隈に売っていました。
夕闇の後に小さな灯りが漏れるお店は、懐かしい映画のワンシーンのようでした。写真なくてすみません。
さて、次の近世は大和郡山城です。
前の古墳めぐりの記事でも言及しましたが、スマホのマップで古墳を見すぎると、大和郡山城もまでも古墳に見えてきます。
しかしネットでも、現地で人に聞いてもそういう話は無いのです。
大和郡山城は戦国時代に地元の勢力が作ったのが始まりとされていますが、戦国時代でも古墳のような場所の上に何か手を入れるのは禁忌のような感覚があったのでしょうか?
それとも、あったけどうっかり城を作っちゃった?
謎は残されたままかもしれません。
大和郡山は、古墳と古代ロマンの奈良盆地において珍しく近世の史跡であり、そういうアイデンティティがあると思いますので、城下町の跡などは別途ゆっくり訪ねたいところです。
明治維新のころに金魚を盛んに養殖して、現在でも金魚の池が多くあり、のんびり涼やかな風景です。
さて、街とお城の中世・近世を見てきましたが、今回とても癒されたのが、自転車で辿った細い道でした。
巻向付近から奈良駅の方へ、JR桜井線と国道169号線の間を、ときには折れますが基本的に南北にまっすぐ伸びる細い道です。
自転車で走ってだいぶ経ってから気がついたのですが、どうやら「上ッ道」を辿っていたようです。
上ッ道は、奈良時代には幹線道路だったのですが、近世では京都方面や奈良北部から三輪山や長谷寺、ひいては伊勢方面の道へ通じる信仰の道となっていました。
最高に気持ち良いしノスタルジックだなと走っていた場所がそういう道だと分かると、嬉しいものです。
古代ミステリーに満ちた奈良の中で、奈良の近世の面影は誰が何のために作ったのか・使ったのかが明確で、それはそれで海の中の浮島のように落ち着くものでした。
今回のグルメなんですけども、謎のモツ・・・検索しても出てきませんが、近鉄奈良駅近くの居酒屋で何気なく頼んで、美味しさに衝撃を受けたものです。あ、近世とは関係ありません。
脂がたっぷりくっついたタイプのモツですが、皮(?)の部分が薄くて天女の羽衣もかくやというほどに繊細でスジも無く、これは高貴な人がこっそり所望する珍味のレベルでは、とと思ったほどでした。
メニュー名はシンプルに「モツ煮込み」でした・・・ミステリー