読むめし

口で咀嚼するたけでは足りず、観念でも食べ物を愛でようとする人間

7月7日、雨の材木座海岸でビールを

昔の勤務先の上司に

「ハワイに行ってもビーチに行かずに戦争博物館とか入りそう」

と言われたわたくしが、一人で鎌倉の海の家に行ってみました。

 

それは梅雨の明けぬ7月、冷たい雨の降る日曜日でした。

 

雨だけれどもビーチの手前の住宅地からサーフボードを抱えたファミリーが歩き、ビーチに着くと何か知らんけどサーフィン大会をやっていました。


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何か知らんけど親戚がサーフィン大会に出ているみたいな顔で海の家に上がりました。

 

日焼けした金髪の日本人のお兄さんにビールを注文する際は、普段よりも滑舌に注意しました。

 

お店のBGMは日本語のレゲエっぽい曲でした。


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コロナビール700円とチェダーチーズポテト500円を頂きました。

 

チェダーチーズポテトは来るまでに7,8分待ったので、きちんと揚げたてでした。

ポテト自体に塩味は無く、チェダーチーズソースのみに味を頼るのですが、なかなか濃い口の風味でちょうど良かったです。

 

灰色の海と空の間を滑るように行くウィンドサーフィンの帆が行き交います。

 

しかしわたくしが思いを馳せていたのは鎌倉時代でした。

 

昨晩から今日の昼にかけて、永井路子の『炎環』を一気読みしたのでした。

 

炎環

炎環

 

 

鎌倉時代黎明期、鎌倉に渦巻く野望や願いを数人の視点から描いた直木賞受賞作(1964年)です。

 

鎌倉を拠点に定めた源頼朝と政子ですが、頼朝の弟(阿野全成)と政子の妹(北条保子)も政略上で結婚したのですね。

第一線でギラギラする頼朝と政子に比べて何となく迂闊な雰囲気のある弟妹カップルですが、歴史を振り返ってみると彼らの動きも大きな要素だったのだなあ、と。

 

弟妹カップルの住居は「海沿いの家」とされ、もしかしたらこの材木座海岸だったのかも、などと考えつつ、歴史上の各事件が起きた年をスマホで調べます。ここ海の家だけど。

 

周囲の客層は、スポーティなおばさんグループ、日焼けカップル、やんちゃっぽい煙草おじさんといったところでした。

 

やや困ったのは、食べ終わった食器の片付け方が分からなかったことです。

店員に確認したかったけれど、レジには3人ほど並んでいて聞けず、客席に店員っぽい人がいてスマホ見ていたけどイマイチ確証がなく、それでも勇気を出して「食べ終わったのどちらに置けばいいですか?」と声をかけたものの、スピーカーからの日本語レゲエに掻き消されてしまい、仕方なくレジ横の空いているスペースに置いて出てきました。

 

途中までは順調だったのに、最後でコミュ障が露呈してしまいました。いや誰にも気づかれてないけど。

 

材木座海岸は鎌倉の中でも東端にあり、そこから真ん中の由比が浜へ向かって歩きました。


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海の家、2,30軒はあるんです。

 

さすが鎌倉なのか、あるいは私が最後に海の家を見たのが昭和の時代だったからなのかは分かりませんが、オッシャレなのよ。


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カリブ海かな?みたいな。

そうかと思うとタイをはじめ東南アジアンなフードを供する海の家もあり。

 

すなわち屋台村のような、お祭りのようなカリブ海のような、それらの良いとこ取りしてオンザビーチみたいな楽園ではありました。

 

また雨の週末になったら、次回はアジアンフードでオンザビーチしたいです。

 

あまりに寒くて客が少なく、持て余した店員さん達が通りすがりに

「雨だいじょうぶ?」

などと声をかけてくれたので、ちょっと地に足がついた気にもなりました。 

 

さてビーチの雰囲気からは相当離れますが、本日のお気に入りショットを1枚載せておきます。


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妙本寺は、あまり観光客向けにアピールしてはいませんが、ひっそりと散策できます。

鎌倉駅から10分ほどで行けるのですが、人通りは少なく、森閑とした佇まいを見るためについついこの「谷」へ向かってしまうのです。

 

何気にこの場所も、鎌倉時代初期に陰惨な戦いの舞台になり、『炎環』にも少し出てくるのですが・・・お寺になったのは悲劇の少し後で、そこからもまた新しい歴史が紡がれて行ったのです。

 

以上、お寺とビーチのギャップでした。

時間と空間の密度が高い鎌倉でございます。

 

ところでこの日も道に迷っている所で外国人に道を尋ねられ、撃沈してから鎌倉を後にしました。ありがとうございました。

 

群馬県太田市の金山城から栃木県足利市の鑁阿寺まで歩いてみた 後編(完)

これまで2回にわたり、太田市から足利市への道のりをお送りしてきました。

baroclinic.hatenablog.com

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さて、新田氏と足利氏はどちらも源氏で、元を辿ると祖先は兄弟なのですね。

 

平安時代に彼らはこの北関東の隣合う荘園を管理することになります。

 

詳しい経緯はくんずほぐれつ、源氏だけど平氏と組んだりいろいろあって、鎌倉の北条政権ではお互いを牽制するように仕向けられたりした末に、ついに鎌倉時代末期に新田義貞 vs 足利尊氏が華々しく火花を散らしつつ幕府を転覆させました。

 

そんな2つの領地が現代はどうなっているのかを自分の目と脚で確認したかったのですが、なんか比較するのも難しいほどいろいろ違うという感想になりました。

 

まずお城ですが、太田市金山城イカつい難攻不落の山城であるのに対して、足利市鑁阿寺は街の真ん中で平べったい平城です。

 

街の雰囲気も、太田市は工業の街で、工場や店や住宅が昭和の時代にガツンガツン建ったような雰囲気であるのに対し、足利市は同じ昭和でも工業の影が感じられず、どうやって人々の生活が成り立っているのか分からないほどノスタルジックな建屋が連なっています。

 

イケメンゲーム風にするなら

太田市 feat.新田義貞「素直に俺について来たら、金山から見える麦を全部お前にやってもいいぜ」

足利市 feat.足利尊氏「遥かな昔、渡良瀬橋で出会った気がします。あなたは夜空の星を織る姫でした」

 

なんだこれ。

 

で、せっかく徒歩で移動したのでその感覚を説明すると、たとえば足利の奉公先で「太田の屋敷に届け物をしておくれ」とご主人に頼まれたら、日帰りできなくもないけど1泊したいなあ、という感じです。


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小走りと歩きで片道2時間ちょっとかかったので、令和の現代では横浜から太田までの電車移動の感覚と似ているかもしれません。

 

なんて、昔は渡良瀬川の堤防も整備されておらず、アスファルトの道もなく、氾濫原の泥道を草鞋で歩くのはけっこう体力が必要だったことでしょう。

 

などと考えつつ、現代の帰路はお寿司に発泡酒でございます。


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ご当地の食レポが無くてすみません。

内陸を歩いたのにお寿司ですみません。

ペットボトルの飲料がとにかく美味しかった一日でした。

 

<本日の飲料>

・グリーンDAKARA

綾鷹

・三ツ矢アップルサイダー

・クラフトボス微糖

 

普通に運動していないときにこの量を見ると、若干「うぷっ」となりますが、当日はどれもめちゃくちゃ美味しかったのです。

昔の人は水を汲める井戸か池の地図が必携だったかもしれない、などと思いを馳せながら3回シリーズを終わります。

 

群馬県太田市の金山城から栃木県足利市の鑁阿寺まで歩いてみた 中編

前回、太田市金山城を訪ねて下山したところまで書きました。

 

baroclinic.hatenablog.com

今回はその足で足利へ向かいます。

 

いやー、当初は金山城訪問で時間と体力を10%ずつ使用するはずでした。

しかし実際には時間35%、体力を70%を使ってからの旅になります。

 

ああ関東平野、平たい畑が続くよ。

 

道祖神庚申塔麦秋だよ。


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家と道と緑だよ。

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たまに現れる水路は先人たちが苦労して築いたものなのでしょう。

散歩の人間にも癒しを与えてくれます。


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北関東の地に実りをもたらす水路よ。


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少し走って少し歩くのを繰り返して進みます。

 

「まだ走れるよね?」

「はい、少しなら」

と自問自答しながらの前進です。

 

「歩けなくなったらどうしますか?」

「うーん、わかりません」

と自問自答も成り立たない脳みそで脚を動かします。

 

そうこうしているうちに、ついに足利市に入りました。


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まもなく川の匂いがして、おや、あの階段は堤防へと続くものであろう。


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渡良瀬川みえた!


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しばし河原の草に埋もれて休憩しました。

ところであれですね、ジョギングする人々にはお馴染みの感覚かもしれませんが、河原ジョグって目標物までの距離が長いですよね。

 

しかしここで負ける訳にはいかない。

少しずつ走って歩いて、あれが足利の街だ!



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渡良瀬橋ですと。あの森高千里の歌にある。


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想像していたよりメカメカしかったです。


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で堤防の道から街へと降りて行くと、いきなりノスタルジーの世界が続いていました。


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ちょうど学生の下校時間帯でした。
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そんで、足利といえば足利学校なのですが、やはりこういう施設は4時半には終わりますよね。。

建物の中には入れず、ちょうど終わったところを外から撮らせていただきました。


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すぐに足利学校の隣の鑁阿寺へ。

鑁阿寺こそが今回の散歩もしくは旅の最終目的地でありました。


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デカい。


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遙かなる旅の果てに辿り着いた浄土のようでした。


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ここが、征夷大将軍にまでなった足利氏の本拠地だったのです。


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夕方の涼しい風に吹かれながら、境内に広々と置かれているベンチでアップルサイダーをゴクゴク。

体力が急速に回復します。

お寺でありつつ公園としての機能もあるのか、あちこちにベンチがゆったりと置いてありおじさんや外国人が読書していて包容力も感じました。

というか歩きどおしだった人間にとって、ゆったり座り放題の落ち着いた場所があるのは実にありがたいことでした。

 

防御機能も兼ねた中世武士の邸宅ということで、四角く水堀に囲まれているのも特徴的です。


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さり気なく足利マークの柵
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鑁阿寺は、鎌倉時代の初期に足利氏が自邸内に建てたお堂が始まりなのですね。

 

太田市金山城の山のふもとから鑁阿寺まで10kmほど、小走りと歩きで2時間ちょっとで行けるので、マラソンランナーの皆様におかれましては何てこと無い距離ですが、旅をした気分がありました。

 

さて、旅はここで一旦終わりましたが、次回は総括をします。

群馬県太田市の金山城から栃木県足利市の鑁阿寺まで歩いてみた 前編

仕事で太田市周辺へ出張になりまして、チャンスとばかりに猛然と地図を見たところ、近くに足利市がありました。

 

これは2都攻略だなと意気込んだのですが、現実は甘くありませんでした。

 

まず、午前中早々に仕事を切り上げる想定でしたが、いろいろ予期せぬことは起こるものですよね。

チェックした製品が、想定していたロットと違うものだったわ。てへ(漠然)

 

ここで予定より1時間後ろ倒しになりました。

 

あと暑かった。

これは想定しておけという要素ですが。

群馬ぐんぐん暑くなる。

 

散歩に出かける前に既にDAKARAのペットボトルを1本飲み干しました。

 

やっと太田駅のコインロッカーに仕事道具を放り込んだら散歩スタートです。

手始めに、太田駅の北にある金山城を目指します。

 

桜並木の運河を辿り、まっすぐ北へ。


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運河の先は大光院という大きなお寺で、金山の城山のふもとにあたります。


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大光院徳川家康が、自身の先祖であるとする新田氏を祀って創建した浄土宗のお寺です。


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(英語の解説がシンプルで面白かったので載せました。幕府はShogunateというのか)

 

家康よりも遠い昔、新田義貞よりももっと昔、鎌倉時代初期に新田義重という人は浄土宗の開祖である法然上人に帰依していたのですね。

 

たしかこの太田から10kmほど南に行き、利根川を渡った所にある熊谷市出身の熊谷直実も同時代で法然上人に帰依しました。

しかし法然上人ご自身は関東に来たことはなく、ほとんど京都で過ごしている・・・法然さんの武士からの支持がハンパない、とか考えて行くとキリがないので宗教の話はここら辺にします。

 

大光院の境内の裏から、隠し通路のようにハイキングコースが続いています。

地図上では太田駅から金山城まで直線距離で1kmほどに見えたので寄り道しても30分あれば到着すると思っていたのが甘かった。

けっこうな山でした。


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ハイキングコース、意外とあちこちに経路の網があったようで、山道で迷いました。だってお城行きの矢印が出ていない岐れ道があるんですもの。

 

そして金山の城跡に着いたら意外と規模が大きいの。

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日本100名城に選定されただけのことはあります。

山城の仕掛けがあちこちに出てきます。


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本丸跡には神社があり、新田神社といいます。


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あ、申し遅れましたが、金山城は新田氏の後裔お城とされています。


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太田市の殿様的シンボルは新田義貞であります。

 

そうそう太田駅前の銅像新田義貞でしたよ。
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新田義貞自身では金山城は築いていないとされていますが、彼の子孫が山に縄張りを固めて、かの戦国上杉軍団すら落とせなかったそうです。


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お城の山から見下ろす太田市、のみならず関東平野雄大で、なんか地球の丸さまで見えそうでした。

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風情のある建家のベンチで下界を見下ろしながら綾鷹のペットボトルごくごく。


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さて下山、下りはハイキングコースではなく舗装された道を走りました。

舗装された道は、つまり、距離は長いということですからね。山下りもひとつの旅です。

 

そんなこんなで金山城を下山した頃には相当時間が経っていたし、それなりに筋力・体力を消耗していました。

 

果たして徒歩で足利まで辿り着くことができるのか?

 

茶番ではありますが、次回に続いてしまいます。

 

 

横浜・野毛山から伊勢佐木町ベタに食べ歩き

1ヶ月ぶりのブログ更新となってしまいました。

ブログ開始以来最長の空白かもしれません。

 

5月、書きたい話は10個ぐらいあったのに、出力するパワーが足りませんでした。

 

そこら辺はあきらめずにゆるゆる振り返りながら書こうと思っております。

 

今回は、いつもの散歩の話を軽く書きます。

 

6月の初めは、恐れていたよりよほど気候の優しい日でした。

 

土曜日の午前中は、布団の中で本を読んだ後、朝食カフェタイムを経て掃除洗濯をして、午後から散歩に出かけます。

 

横浜、まだ飽きません。

今の部屋に住んで2年半ぐらいにはなりました。

 

東北人にとって憧れの、海に面した陽光かがやく土地、なんつって、実際には家から海が見える訳でもなく太陽の光はだいたいどの場所でも同じように届くのですが、横浜は住んでいるだけで気分が上がる場所ではあります。

 

だってほら、坂道と家、どんなに歩いても家


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ねこ

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谷と丘の向こうはきっと海

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という訳で野毛山にやって参りました。
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バラありまっせ


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季節は薔薇から紫陽花へと


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この日は野毛山から坂を降りて、伊勢佐木町へ。


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また坂がいいよね


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伊勢佐木町散歩、昭和の時代には「伊勢ブラ」とか呼ばれていたやつです。

 

散歩の途中でちょい飲みできるお店もちょいちょいあります。

お洒落ではなくてザ・大衆の酒場ばかりですが。


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台湾小皿料理の口福館でビール300円と、ハチノスのネギあえ399円、タッチパネルで注文できるの、現代的です。

お一人席で壁に向かって飲みますよ。

餃子や豆腐サラダが百円台からと、バル的な飲みを気軽にできるのが魅力です。

 

話はやや横道にそれるけど、伊勢佐木町からほど近い横浜中華街のお店も定食や大皿料理やコースだけでなく、一人で小皿をつまめるお店ができるといいなと個人的には思います。


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あ、ハチノスって、牛の第2胃袋のことです。

あみあみになってるやつ、好物なのです。

小皿料理は百円台からある中で399円は高いかなと思ったけれど、量的に2人ぶんあり、程よい柔らかさと弾力のあるハチノスをネギと香ばしいゴマ油でいただけて、充足しました。


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なにげに翌日の日曜日も所用で同じ方面を訪ねることになったのですが、また新しいお店をたくさん見つけてしまいました。

これは何と言うのでしょう、脚が何本あっても足りないし胃袋ももっとほしい、なんて牛みたいなことを言って今回は終わります。