急に備中松山城
仕事で急に、お客様からクレームが来たのです。
ええ、クレームはいつも突然にですけど。
「お客様がお問い合わせの弊社担当は先日退職いたしました。現在の担当は長期休暇中です。」
ってことで、私が現地に行くことになったYO.
行ったこともない場所で扱ったことのない製品の検品をするということで、プレッシャーが大きかったんですけど、なんとか現地に着いて作業を終えましたので、翌日は休みを取っちゃったYO.
倉敷に一泊し、翌朝は備中松山城へ。
倉敷からJRで30分ほど北上すると、城下町の備中高梁駅に着くのですね。
駅から街の中を歩いて、お城へ登る登山口へ。
約1.5kmの山道です。
筋肉痛バッチコイ!
って、山道の割に勾配が一定で、困難な箇所は無かったです。
途中から城主が語りかけてきます。
「城主誰よ?!」
とツッコミながら登ります (城主を知らずに向かっている)。
徒歩の人は登山口から天守まで1.5kmですが、そのほぼ中間地点に駐車場があり、車で別の道から途中まで来られます。
そこを過ぎると圧巻の石垣が出現します。
登山道を歩いて来た感覚からだとすっかり山の中なのですが、こんなにイカつい石垣が出現するパターンがあるのですね。
さすが中国地方は戦国時代の激戦地?
さて、いよいよ本丸付近まで来ると、城主誰なのか問題の答えがありました。
城主変わりすぎ案件です。
登山道で語りかけてくる「城主」は、それぞれの心の中にあるのだと思います。
天守は小ぶりですが、さすがに城主は日常的にここに居たのではなく山の麓で暮らして仕事しており、山の上の天守は戦が起きたときだけ使う小屋みたいなものだったのですね。
だって、こんなに高い場所ですよ。
平日の午前中だったので、お年寄が杖をつきながらワッセワッセと歩き、天守の中では「アイタタタ」と言いながら急な階段を登る姿が見られました。
そんななので、現存天守までの道はまあまあeasyでしたが、実はその奥にさらなるトレイルがあったようです。
<高梁の山登山詳細図 全21コース>
http:// http://www.kibito.co.jp/book/978-4-86069-563-7
そんなことも、帰宅してTwitterを眺めていたら判明したりなんかして、興味が尽きません。
写真は、高梁からは電車で30分ほど離れますが、倉敷駅のピオーネスイーツです。
ショーケースに並んでいるだけで見惚れる透明感でした。
時間と場所の都合で、食べてないけど・・・
仕事でさらに悪いことが起こらないかビクビクする一方で、また行けないかなあと期待する今日この頃です。
オネアミスの翼の異世界感から八王子駅前の斜めストリートを見た
2018年10月20日(土)横浜から横浜線に乗って八王子に行ってきました。
何しにかというと、美術館に「オネアミスの翼展」を観に行ったからなのですが、このブログで報告するべきは食べ物です。
JR八王子駅からちょうど美術館の方向へ斜めに延びる遊歩道ストリート(西放射線ユーロードというらしいです)を歩きました。
お昼は老舗ラーメン店の「竹の家」でスタンダードなラーメンをいただきました。
ノスタルジー、レトロ、昭和と形容される、東京醤油ラーメンです。
魚介でも肉でもないというか、ダシの風味が何もせず、スープに脂の成分は無いのですが、調味料の味のカドがなくてまろやかな味です。
チャーシューは赤みだけのペラッとしたやつかと思いきや、意外とプリッとして風味がありました。
ネギとメンマとノリがスタンダードにそれぞれの役割を果たしていて、分量のバランス的に飽きさせません。
飲み会の後に食べたらホッとするでしょう。
美術館の帰りは、同じ斜めストリートの「サラダガール」に寄りました。
一言でいうと、センスが良い。
店の外装と内装が、ちょっとお洒落だけど親しみやすくて開放的で入りやすい。
そして食べ物が、シンプルだけどオリジナリティがあって、確実に美味しい。
ジャガイモとキャベツのパリパリサラダ、ジャガイモは極細の千切りにして揚げ、千切りキャベツの上に乗せただけのものですが、食感と味付けのバランスが絶妙です。
手作り薩摩揚、食べかけの写真ですみませんが、ふわふわでタマネギのアクセントもあり、揚げた風味は香ばしい。
食器もまた絶妙に独特で、ストリートに馴染みつつ僅かにファンタジックな世界観を出しています。
それから、店名を忘れたのですが、同じ斜めストリートの駅寄りのほうにやたら安い中華料理屋がありました。
焼き餃子4個150円、水餃子250円、ハイボール100円ですと。
味は普通でしたが、ここに来れば300円以下で肴が付いて飲めるとか、なんて場所だ。
ところで、この日の目的だったオネアミスの翼展ですが、けっこう刺激ありました。
公開は1987年で、正直当時は横目でチラッと程度だったのですが、この展示を観て驚きました。
架空の惑星の架空の国で、一人の男が史上初の宇宙パイロットを目指すという話なのですが、その設定資料が綿密でした。
食べ物まで架空なんですよ。
食器も、ボトルの形も。
そして文字も。
街並みは中世ヨーロッパと未来宇宙的なものが混ざって、どうしてこんな世界を創り上げることができるのだろうと。
展示で監督のインタビューが映像で流れていて、
「今ある身近なものも、変化する流れの中で、今たまたまそういう形をしているに過ぎない。例えばお皿にツノが生えていたら違和感あるでしょう。そういうちょっとした異世界感を出そうとした」
みたいな話があり(うろ覚えですが)、なるほどと思いました。
そういう脳で外に出て街を歩いてみたら、飲食店は、多かれ少なかれ異世界感を出すところになりました。
小洒落たバー、和風居酒屋、中華料理屋、それぞれがストリートの現実から壁紙一枚隔てて少し別の世界を演出しています。
そんなことを考えた八王子探訪でした。
日曜午後3時の横浜中華街
横浜中華街、9月と10月の3連休は混んでいたことと思いますが、それが終わった普通の週末も結局ぼちぼち混んでいました。
特にメインストリートである中華街大通りは相変わらずの人混みです。
本日は、メインストリートから直角に入った市場通りにある永遠福楼さんでいただきました。
エビチリ、チャーハン、カニとフカヒレのスープ、小籠包、ミニサラダ、ザーサイにあと杏仁豆腐が付いて900円です。
定食というよりコースとさえ言える内容で流石のコスパなので、別途ビールを頼んで一人宴会ができます。
小籠包やチャーハンは普通ですが、エビチリのエビが真面目に粒ぞろいで数も多かったので、エビチリまっしぐらで中華街を訪ねた身には十分すぎる水準でした。
ちなみにこちら、ランチではありません。
開店から閉店まで通年でいただけるレギュラーなセットです。
平日のランチはもっと安くてシンプルです。
最初、店内は私一人だけでしたが後から2組入ってきました。
そんな緩い時の流れが午後3時です。
そういえば、いつも気になっているお店はこの時間どうなんだろうと、永福楼を出て歩いて行くと、
いつも満員で入れない、上海焼そばで有名な萬来亭さんが今なら入れる。
エスニックな餃子で有名な山東さん、最近満席続きだったけど、今なら行ける。
ってお姉さま方もおっしゃっていました。
これまで行列が絶えたのを見たことがない謝甜記さん、今ならあと3人だ。
ということで、普段混んでいるお店には、午後3時台に攻め込めば良いことが分かりました。
それでは、この記事冒頭の人混みは何だったのか?
どうやら、店内ではなく店頭で饅頭や小籠包を買って食べている人が多いようです。
中華街は目的地ではなく、横浜見学のついでのようなノリかもしれません。
最近、店頭購入型の新しいお店が増えているようで、そのような中華街ライトユーザーの需要を見越しているのかもしれません。
さてこちらは、胃袋の中身を消化しがてら夕方の山下公園を歩きます。
大きな客船が大さん橋を出るところで、汽笛が低く響きました。
世界中を巡る人々が、この公園や中華街も珍しい目で見て行ったのかと想像すると、心の底を冒険の風が吹き抜けるようでした。
鎌倉で鎌倉末期と南北朝~観応の擾乱の史跡を訪ねる 4 (完)
2018年10月6日の鎌倉散歩、第4回にして結びとなります。
急に4回シリーズになってどうもすみません。
前回の記事はこちら↓
今回もこの時代の概要みたいなのを載せておきます。
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3 南北朝
後醍醐天皇と足利尊氏がバリバリに対立し、南朝と北朝に分かれたのが1336年です。
こうして見るとこの時代、毎年のように何かが起きていますね。
しかし南北朝の時代は京都と奈良がホットです。
鎌倉はというと、足利氏が南朝の勢力を牽制するために、関東管領として有力な人材を配置する動きがありました。
その最たるのもが上杉家で、複数の上杉家に分かれ、鎌倉に住んだり関東に勢力を伸ばした結果、戦国時代の一大勢力になるのですね。
南北朝でなかなか混乱が収まらないうえに、今度は足利尊氏(with 執事の高師直)と弟の直義が対立してしまいます。
これがまた全国の勢力を巻き込んで戦闘が起こり、途中で高師直が殺害されますが、帰結として直義が敗北し鎌倉へ護送→死亡となります(1352年)。
浄妙寺に幽閉された直義は、ほどなくして病死と公式的には伝えられますが、毒殺だったのではないかというのが当時からの大方の見方でした。
この部分は何だか心臓をつままれるような気持ちになります。
5 南北朝の収束
1392年、足利尊氏の孫である足利義満がやっと、南朝を統合する形で南北朝の統一を果たします。
政治も文化も中心は京都となり、鎌倉は足利氏と上杉氏が治める土地になります。
かの江戸城を築いた太田道灌は、扇ガ谷の上杉氏に仕えた人でした。
鎌倉駅と北鎌倉駅の間にある英勝寺は、太田道灌の邸宅跡に作られたと言われています。
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2018年10月6日の散歩では遅めのランチを、扇ガ谷の住所まであと数mの、鎌倉駅裏にあるソンベカフェでいただきました。
もっちりパッタイに野菜たっぷり、唐辛子と酢と砂糖がかけ放題ですよ。
鎌倉での食事は千円以上を想定していたのですが、オープンカフェでアジアンな食事を850円でできてよかったです。
さて今回のお散歩は、歩いた順番と関係なく時代順に書いてみました。
話は極力シンプルにしようとしたのですが、書いているうちに長くなり記事が4つになってしまいました。
吉川英治の小説『私本太平記』には、赤橋守時&登子、上杉憲房などの鎌倉方や、楠木正成、名和長年、北畠顕家など多彩なキャラクターが登場するので、まだ書いていないことはモリモリとあります。
ちなみになんと、吉川英治の『私本太平記』は、青空文庫で無料で読めてしまいます。
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昔この辺りを行き来していた人々はいかめしい面々だったのだろうと想像しつつ、うららかな秋の日にアジアンなカフェから横須賀線を眺めるのは、なかなか不思議なひとときでした。
鎌倉で鎌倉末期と南北朝~観応の擾乱の史跡を訪ねる 3
2018年10月6日の鎌倉散歩、前回で鎌倉幕府が滅び、今回はその後です。
今回もこの時代の概要みたいなのを載せておきます↓
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2-1 宝戒寺
鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇が建武の新政を始めます(1334年)。
宝戒寺は、北条氏を弔うために後醍醐天皇と足利尊氏が建てたお寺ということで、短かったけれども彼らの蜜月を思わせる成り立ちです。
この日に訪ねた際はご法事で入れなかったので、2017 年9月に撮った写真を載せておきます。
鶴岡八幡宮にほど近く、名前も由来も独特なうえにワッサーっと秋に萩が咲くので、史跡かつ花スポットとして自分の中ではソリッドです。
鎌倉幕府滅亡(1333年)→建武の新政(1334年)は、束の間の平和というか、実態は平和ですらなく地殻変動は続いていました。
後醍醐天皇の実子である護良(もりなが or もりよし)親王は、建武の新政で征夷大将軍となります。
倒幕の頃からアクティブに活躍した武闘派の親王だったのです。
しかし、足利尊氏と反目したり、他の親王の母親の策動があったりして、京都で捉えられて鎌倉へ送られ、殺害されてしまいます(1334年)。
この時代がいかに混沌としていたかを示す大事件です。
墓所は、真っ直ぐな階段を百段以上登った(たぶん)所にあり、登り切ったと思ったら門の向こうにまだ階段があるという、いかつい構造になっています。
3 南北朝
後醍醐天皇と足利尊氏がバリバリに対立し、南朝と北朝に分かれたのが1336年です。
こうして見るとこの時代、毎年のように何かが起きていますね。
しかし南北朝の時代は京都と奈良がホットです。
鎌倉はというと、足利氏が南朝の勢力を牽制するために、関東管領として有力な人材を配置する動きがありました。
その最たるのもが上杉家で、複数の上杉家に分かれ、鎌倉に住んだり関東に勢力を伸ばした結果、戦国時代の一大勢力になるのですね。
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きっと次回で完結します。
時勢は鎌倉から次第に遠ざかって行きます。
その最後の事件が起こります。
(写真と内容はあまり関係ありません)