読むめし

口で咀嚼するたけでは足りず、観念でも食べ物を愛でようとする人間

鎌倉で鎌倉末期と南北朝~観応の擾乱の史跡を訪ねる 3

2018年10月6日の鎌倉散歩、前回で鎌倉幕府が滅び、今回はその後です。

 

baroclinic.hatenablog.com

今回もこの時代の概要みたいなのを載せておきます↓

 

  1. 鎌倉幕府末期: 後醍醐天皇足利尊氏などが、鎌倉幕府を倒す。
  2. 建武の新政: 後醍醐天皇が京都で新しい政治体制を敷く。
  3. 南北朝: 後醍醐天皇と足利氏が対立する。
  4. 観応の擾乱: 南北朝の対立のうえに、北朝内部で足利尊氏と弟の足利直義が対立する。
  5. 南北朝の収束: 足利尊氏も直義も死去し、足利尊氏の孫である足利義満南朝を吸収して南北朝を収束させる。 

 

--

 

2-1 宝戒寺

f:id:baroclinic:20181007124534j:image

鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇建武の新政を始めます(1334年)。

宝戒寺は、北条氏を弔うために後醍醐天皇足利尊氏が建てたお寺ということで、短かったけれども彼らの蜜月を思わせる成り立ちです。

 

この日に訪ねた際はご法事で入れなかったので、2017 年9月に撮った写真を載せておきます。


f:id:baroclinic:20181007125337j:image

鶴岡八幡宮にほど近く、名前も由来も独特なうえにワッサーっと秋に萩が咲くので、史跡かつ花スポットとして自分の中ではソリッドです。


f:id:baroclinic:20181007125633j:image

 

2-2 護良親王墓所

f:id:baroclinic:20181007130513j:image

鎌倉幕府滅亡(1333年)→建武の新政(1334年)は、束の間の平和というか、実態は平和ですらなく地殻変動は続いていました。

 

後醍醐天皇の実子である護良(もりなが or もりよし)親王は、建武の新政征夷大将軍となります。

 

倒幕の頃からアクティブに活躍した武闘派の親王だったのです。

 

しかし、足利尊氏と反目したり、他の親王の母親の策動があったりして、京都で捉えられて鎌倉へ送られ、殺害されてしまいます(1334年)。

 

親王かつ征夷大将軍が殺害されるって、えらいことですよね。

この時代がいかに混沌としていたかを示す大事件です。


f:id:baroclinic:20181007131739j:image

 

墓所は、真っ直ぐな階段を百段以上登った(たぶん)所にあり、登り切ったと思ったら門の向こうにまだ階段があるという、いかつい構造になっています。

 

3 南北朝

後醍醐天皇足利尊氏がバリバリに対立し、南朝北朝に分かれたのが1336年です。

こうして見るとこの時代、毎年のように何かが起きていますね。

 

しかし南北朝の時代は京都と奈良がホットです。

鎌倉はというと、足利氏が南朝の勢力を牽制するために、関東管領として有力な人材を配置する動きがありました。

 

その最たるのもが上杉家で、複数の上杉家に分かれ、鎌倉に住んだり関東に勢力を伸ばした結果、戦国時代の一大勢力になるのですね。

 --

きっと次回で完結します。

 

時勢は鎌倉から次第に遠ざかって行きます。

その最後の事件が起こります。

 

(写真と内容はあまり関係ありません)
f:id:baroclinic:20181007212132j:image