読むめし

口で咀嚼するたけでは足りず、観念でも食べ物を愛でようとする人間

2019年の終わりに夏の三浦半島記- 久里浜から怒田城を経て横須賀へ

2019年8月に書きかけていたのですが、諸事情により完結していなかった記事を年末に終わらせます。

 

三浦一族が平安時代に、なぜ半島の内陸部を本拠地にしたのか?

わたくし、現代の道路地図を平面図で見て理由が分かっちゃったんですよ。

 

道路地図を見て地形を予想するというのは、道路の密度や曲がり具合でだいたい坂が分かるという意味です。

え?そんなの当たり前?

言われてみればそうかも?

まあ人それぞれでしょう。

 

昔は、三浦半島の先っぽの久里浜から内陸部へ海が入り込んでいました。

 

その突き当たりの辺り、海の入江とも川ともつかない沼沢地を拓いて住んだのが現在の京急衣笠駅付近になるでしょう。

入植した三浦氏は、この付近にいくつかの城というか砦を作ったようです。

海から見ると衣笠の手前で丘になっていて、比較的大きな船で海へ出やすかったのが怒田(ぬた)城だったと推測されています。

 

という訳で、怒田城跡へ行ってみました。


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住宅地の裏山に、ひそかに上へと続く道あり。


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この案内板によると、縄文時代貝塚だったのですね。

ほら、海のキワでしょ?


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三浦一族は平安時代三浦半島を領地として与えられ、入江が入り込んだ奥に詰めの城を、周囲の稲作と村落地帯にいくつかの支城を、そして海に最も近いこの場所にも一つ城を作ったと推測されています。
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かの源平合戦の緒戦で敗れた三浦一族の一派は、近くの久里浜から房総半島へ逃れたとのことです。

 

この日は夏では珍しく富士山が薄く見えたのですが、写真に残っていませんね・・・消えちゃったのかな・・・てへ


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地形の読みに満足し、この日は平作川を少し遡ってイツワ製麺所でセロリつけ麺をいただきました。

 

暑い日でしたからね。


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理想的なセロリの茎が存分に乗っていて、つけ汁は徹底的にあっさりです。

そっと隠れている豚バラのスライスがコクを加えてくれます。

 

今どき珍しく店内にはクーラーが無いのですが、扇風機の風が当たればしのげます。


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他のメニューも食べてみたい。

 

さて、ここからまた少し平作川をさかのぼり、90度折れて横須賀の街を目指します。

 

現在いる場所が川べりで半島の真ん中を流れており、そこをそれて港のある横須賀の街を目指すということは、山をひとつ越えることを意味するはずです。

 

かなり暑い日だったので覚悟して歩き始めたのですが、意外と道は山塊を縫うように避けて、ほんの僅かな勾配で登り続けました。

 

それでも山を越えて海へ行くはずだから、峠からは海が見下ろせるに違いない。

 

そんな期待はどんどん先送りになり、峠がないまま横須賀の市街地が始まりました。


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そして突然急勾配があり、その目と鼻の先に京急横須賀中央駅が現れました。

 

写真を撮りようもなく、というか驚いていたのでしょうね。写真がなくてすみません。

 

横須賀を訪れる方も、なかなか横須賀中央駅の後ろ(山)側から来ることはないと思いますが、この突然さは軽く混乱するほどです。

 

海は結局、見えなかったよ。

 

わたくし、この記事の最初のほうで、道路地図から地形が分かるなんてうそぶきましたが、自分が辿っている道のすぐ先の勾配さえ分かりませんでした。

 

今日び、そこそこ細かい地形が分かる地図だって出ているのですから、無理に道路だけで判断する必要も無かったって話です。

 

来年は、活用できるものを活用したい。

 

そんな反省をして、2019年を終わります。