読むめし

口で咀嚼するたけでは足りず、観念でも食べ物を愛でようとする人間

鎌倉、大町のお寺を尋ねて

鎌倉時代の新しい仏教ということで『親鸞』を読んだら全く鎌倉が出てこなかったという話を前に書きました。

 
そこで、今度こそ同時代に鎌倉にいた日蓮の小説を読んでみました。
山岡荘八の『日蓮』、全1巻です。
 
日蓮は、千葉県は小湊の出身です。
 
かの井伊氏の分家で、浜名湖周辺にいたのが、何らかの乱に連座したと鎌倉幕府からイチャモンを付けられて外房へ配流になりました。
 
そこで漁師として生きる一家でしたが、お武家さんだったので読み書きなどができたのでしょう、日蓮はその地の地頭のご学友として召し出されます。
 
明らかにデキる日蓮は、お寺のスカウトの目にとまり、千葉のお山のお寺へ入る、という経緯でした。
 
ところが、あまりにもデキすぎて次第に世の中の不条理が引っかかるようになります。
 
仏様が見ているはずなのに、どうして世の中は苦しみだらけなのか?
 
仏様を奉じる人たちの中で、誰が正しいのか?
 
なぜ日本にはいろんな宗派があるのだ?
 
本気で気になった日蓮は、経典を読みまくり、各地の高僧とディスカッションの旅もします。
 
そうして得た日蓮の結論はこうでした (ブログ筆者の解釈です):
 
密教系 → 盛大に祈っても、世の中の不正や苦しみは消えていないじゃん。
 
浄土系 → 祈るだけで誰でも救われるとか、人間の力はそんなに小さくて、自然のなすがままなのか?
 
禅系 → 肉体を苦しめて悟りを得られるとなると、形式主義に陥るのでは?
 
・・・どれも違うようだ。
お釈迦さまの元々の教えにはこんな宗派など無かった。お釈迦さまの直接のお言葉に最も近い原典こそが最も真理に近いのではないか。
 
それは、法華経だ!
 
原典に忠実に従えば、宗派は分立もしないし、政治だって正しく行われるはず。
 
で、鎌倉に突っ込んで行って活動を始めます。
 
まず草庵を結んだのが、名越切り通りの近くの妙法寺付近と言われています。
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元の草庵は、政治でも仏教世界でもあらゆる敵を作ってバッキバキに焼き討ちされて残っていないので伝承になる訳ですが。
 
そのすぐ近くに安国論寺があります。
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名前が個性的でかなり分かりやすいですね。
 
日蓮が「こうしないと国はイカン」と文章を書いた場所です。
 
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そそっと門をくぐって本堂までを歩くだけでも、気持ちの良い視界に囲まれます。
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観光客は私の他には2人連れだけでした。
 
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観光的にはそれほどメジャーではない、(今は)落ち着いたお寺を見られてよかったです。
 
と言いつつ、本日のおみやは御成通りの鎌倉小川軒、シューロールをいただきます。
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玉子の風味が濃厚で、クリームがまったりしてシュー皮が独特の食感を出し西洋の贅沢を感じるお菓子でした。
いろいろすみません。
 

吉川英治の小説『親鸞』を読んで

この記事には小説のネタバレが含まれます。
というか歴史上の人物の話だし小説が書かれたのは昭和10年代なのでネタバレも何もないかもしれませんが、小説の展開がハラハラドキドキなので、楽しみに取っておきたい方はそっと目をそらしてください。

また、歴史上の話ではありますが、小説なので多少の異なる見解もあることをお断りしておきます。
 
 
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親鸞は1173年生まれ、1263年没。


すなわち、「いい国つくろう鎌倉幕府」と言っていた(?)頃の動乱に生きたお坊さんです。
 
親鸞は、人間の弱さや欲望に向き合って受け入れた人と聞いていたので、ヨレた酔っ払いみたいな人かと想像していたら、真逆でした。
 
なんと親鸞の母親は、源頼朝義経兄弟の又従姉妹らしいんですね(諸説あり)。
 
父親は京都の貴族でした。
 
武家の血をひき貴族の家に生まれた親鸞は、世の中の争いごとに巻き込まれないようにとの周囲の願いから、わずか9歳で仏門に入ります。
 
このときからもう圧倒的にハイパーな能力がとめどなく発揮されます。
 
お寺での預かり先である慈円さんは、一目見た瞬間に
「この子ヤバい」
と見抜き、異例のスピードで仏門の昇進を後押しします。
 
その慈円もハイパーな家柄で、お父さんもお兄さんも摂政関白なのです。
 
特に慈円の兄の九条兼実は、頼朝に征夷大将軍を宣下するとか、平安末期から鎌倉初期にかけての超VIP人物です。
 
九条兼実慈円の兄弟は、俗と聖の間で立ち回り、志と能力のある人々を後押ししますが、あんな所に行き着くとは思いもしなかったかもしれません。
 
すなわち、女人禁制とされていた当時の仏門の中で、九条兼実の娘と親鸞が結婚しちゃいます。
 
若くして異例の昇進を続け、山で厳しい修行を何年もやって、経典を読み漁り、各地の高名な僧とディスカッションを重ねた挙句、得られた結論は「坊さんでも結婚アリだわ」っていう。
 
エリート中のエリートたちがとんでもないことをしでかしたので、それぞれの政敵から攻撃されてもう大変です。
 
新しい宗教が起こるとき、創始者と周囲の人々は往々にして迫害されます。
 
鎌倉時代に勃興した新しい仏教の周りでも、えげつない迫害は起きていたのですね。
 
いやもう、仏教の話なのに展開はジェットコースタームービーよ。
 
アクションシーンも随所にあります。
小説の中で偶然の出会いもしばしば起こりますが、それらは世の中の何かの象徴と捉えれば受け入れやすいでしょう。
 
ところで、私は鎌倉時代つながりで読み始めたのですが、親鸞は首都・鎌倉には全く行かなかったんですね。
私の認識が甘かった。
 
舞台は京都と叡山から、流罪になって北陸、そののちに北関東へ。
仏教界のカリスマは、各地に仏の教えの灯をともして行きます。
 
なるほど、それが後の時代の宗派の分布につながるのか・・・?など見えかけているものもあり興味深いです。
 
ところで、序盤は酒を飲みながら読むなんて申し訳ない気持ちがあったのですが、展開するにつれて「ええんやで」ってなりました。
 
もう肉の写真を貼っておきます。
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小説に仏教や宗教モノってアリだと思います。
 
悟りを開こうとあれこれ考えて勉強して修行して議論したのに、里へ降りて現実世界を見たら自分の身近な親族の生活の悩みのほうが切迫していて一から考え直したり。
 
小説のところどころに様々な上人や弟子たちの言葉がちりばめられているのもお得です。
説話集などから引っ張ってきたエピソードも多いのでしょう。それだけでもありがたや。
チョコレートをかじりながら仏教の本を読んだっていいんです、たぶん。
 
 

韓国土産の謎の缶は、野菜と炒めて美味しいつぶ貝でした

前回まで鎌倉の話が続いたので、この辺でこのブログの基本に戻って食べ物の話をします。

先月から韓国へ赴任になった日本人に、韓国土産をいただきました。

ただし、買ってきた人も実際に食べたことはなく、周囲の韓国人に勧められたとのことでした。

曰く、
「野菜と一緒に胡麻油やコチュジャンで風味を付けて」
「バター炒めもいける」

で、その缶なのですが、イマイチ何が入っているのか分からない。
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ぜんぶ韓国語です。

今日び、スマホのカメラを向けると日本語訳が出るみたいなアプリもあるのかもしれません。

あるいは、PCの韓国語入力をONにして文字を打ち込んでGoogle翻訳で確認できるかもしれません。

それとも、韓国語を勉強しちゃうかい?

しかし、そのような悠長なことをしている場合ではありません。
まず食べたい。

缶に中身の写真もあるのですが、判然としません。
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チキンかな?
と思いました。
鶏皮とコラーゲン的なやつかな?

なるほど鶏皮と野菜炒めってあまり見たことないけど美味しそう。

などと想像しながら、スーパーでキャベツがメインのカット野菜袋を買ってきました。

缶を開けてみると、
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貝の水煮?

予想よりも遥かにカロリーが低そうです。
脂っけが一切ありません。

汁は甘辛で、貝の旨味がよく出た醤油的なものがベースのようです。

貝はつぶ貝のようなやつで、見た目も大きさもサイゼリヤエスカルゴによく似ていました。
しかし脂っけはありません。

予想よりヘルシーだったので胡麻油を多めにフライパンに敷いて、スライスした生姜とカット野菜を投入します。

なんとなく気分で缶詰の汁を半量入れて、コチュジャンも混ぜて蓋をして蒸し煮にすること7,8分。
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ビールをいただきながら待ちます。

火を止めて、さらに5分ほど蒸らして味をなじませます。
まあビールを飲んでおつまみをゆっくり食べていたからなんですけど。

できた。
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えー、とても美味しかったです。

貝の甘みと、じっくり蒸らしたキャベツの歯ざわり、とろける玉ねぎ、そしてコチュジャンの辛さが浸透し合っていました。

つぶ貝は20個くらいは入っていたので普通は2,3人前かもしれませんが、1人で完食してしまいました。

貝好きの人には嬉しい一品でした。

また機会が与えられたら、今度はガーリックバター炒めにしたいです。

もう一品、フレーク状の韓国海苔もいただきまして、明太子と九条ネギとともにうどんにかけたら間違いなく激ウマでした。
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缶詰も韓国海苔も、ネットで検索してしまいそうです。

→あった。やはり缶はつぶ貝でした。日本産のは最初から酒の肴としての味が付いているものばかりなので、この缶は韓国土産によさそうです。


鎌倉時代に裏切られて殺された人ランキング

相変わらず鎌倉時代の勉強をしております。

ランキングなんて不謹慎かもしれませんが、多くの人が悲しい亡くなり方をしているようなので書いてみました。
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⚫️番外編
源の一族

源義経: 間違いなく辛い裏切られ人トップでしょう。兄の頼朝に追われ、奥州で追い詰められて自害したとされています。

源範頼: この人も義経と同じく頼朝の弟なのですが、義経の死後に嫌疑をかけられ修善寺で暗殺されました。

源頼家: 頼朝と北条政子の息子で、幕府二代目征夷大将軍です。が、北条家と対立し、修善寺に幽閉された挙句、入浴中に暗殺されます。

源実朝: 幕府三代目の征夷大将軍で、頼家の弟です。実の兄(頼家)の息子すなわち甥に「父の仇!」と言われて、鶴岡八幡宮で殺されてしまいます。

公暁: 「父の仇!」と実朝を暗殺した、頼家の息子です。暗殺を実行してから程なく彼自身も北条氏に殺されます。
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・・・なにこれ、鎌倉幕府征夷大将軍連続殺人事件ですか。

番外編だけでも偉い人の死屍累々となってしまいました。

やはりランキングは止めておきましょう。
源さん以外の人々を列挙します。
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⚫️比企能員(ひきよしかず)
頼家の乳母が比企尼といって、頼朝が不遇の時代から世話をしてくれた人なんですね。
その縁で能員さんは頼家の側近となり、武功を挙げるし娘を頼家に娶せたりしました。こうして勢力が大きくなると、北条氏と対立する形となり、一族もろとも殺されてしまいました。

⚫️梶原景時 (かじわらかげとき)
義経を陥れた、いわゆる「 佞弁の人」として後世に残ってしまいます。
元々は神奈川近辺に住んでいた平氏系の一族だったのですが、何を思ったかピンチの頼朝を匿って以来、信頼の厚い部下となります。
決して能力の低い人ではなかったのですが、それゆえか義経と作戦で対立してしまいます。
時代の急激な転変であちこち敵ができてしまって、「じゃあもう京都で仕事探すか」って東海道を西へ向かう途中で、恨みを持った人に殺されてしまいます。
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⚫️畠山重忠 (はたけやましげただ)
血筋は平氏ながら、途中から頼朝の味方になり鎌倉幕府成立に寄与した武将。
血筋のせいか、たびたび謀反の疑いをかけられるが、本人は至って泰然としていました。
しかしついに息子が北条方の恨みを買ってしまい、一族討滅されます。
だが生前の畠山重忠の人柄を知る人々からの信頼は篤く、結局殺した側も処罰されます。

⚫️和田義盛 (わだよしもり)
難しいなあこの人。
梶原景時を失脚させる署名に連座し、比企一族を討滅するときには北条方で比企さんを滅ぼしました。畠山重忠に謀反の疑いをかけたときにも北条方で畠山さんを滅ぼしました。
だけど、結局最後は北条氏の挑発に乗って戦いを仕掛けて殺されてしまいます。
尚、和田義盛の最期の激戦地が「和田塚」で、江ノ電鎌倉駅の隣の駅になります。
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⚫️三浦泰村 (みうらやすむら)
源平合戦のさなか、ハマの番長こと(?)三浦大介義明が横須賀の砦で壮烈な戦死を遂げてから数十年、孫の泰村の代には鎌倉幕府を支える重要な一族となっていました。
しかし、大きくなったが故にこれも北条氏の策略により討滅されてしまうのです。

⚫️大江広元 (おおえひろもと)
ほとんどみんな死んでしまったからこの人も死んだかなと思ったけど、78歳まで生きたようです。
もともと京都の官吏で、鎌倉幕府の始まりに前後して鎌倉へやって来て、政策に手腕を発揮しました。
朝廷との関わりが深く、バランス感覚もあったのでしょう。
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今回は、フリー素材のおにぎりをブログに散りばめてみました。

彼らの魂に安らぎあれ。


鎌倉を勉強中。お寺と花編

前回の記事では、御所の跡や木造建築についてつい考えこんでしまったので、今回はパッと、花の写真を載せておきます。

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ハギがもりもりしていました。

宝戒寺は鎌倉で「萩の寺」と呼ばれていて、9月から10月が見頃なようです。

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お寺ができてから600年や700年が過ぎれば、花も集積するのでしょう。

宝戒寺は1335年、あの足利尊氏が建てたのだそうです。

というのも、鎌倉幕府南北朝のゴタゴタのうちに滅亡してしまいまして、宝戒寺は北条家の屋敷跡だったようなのです。

北条さんはこの近くで集団でハラキリして鎌倉幕府が終わったのです。

南北朝の主人公・後醍醐天皇 with 足利尊氏が、弔いのために建てたお寺だと言われています。
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武家の屋敷は無くなるけれど、お寺は残る、やつもある。

花は美しく、訪れる人も多く、しっかり弔われているのではないでしょうか。

ところで、鎌倉にはたくさんのお寺がありますが(百あまりらしい)、観光客が訪ねる有名なお寺と、そうでもない普通のお寺と、そもそも一般公開していないお寺があるようです。

有料公開でもバカ高いところは無く、維持費と思われます。
儲けるためではないけれど、できるだけ多くの人が来て、仏の教えを理解したり感じたりしてほしい、というスタンスなのかもしれません。

そうなると特に昨今、一般の人々を呼び込むには、フォトジェニックであることが重要になってきたのではないでしょうか。

たとえば報国寺は、鎌倉で「竹の寺」として有名です。
もしかしたら、日本人より外国人の間で有名なのかもしれません。

どうも、特に西洋の人は竹の林に東洋的なものを感じるらしいのです。
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一方、明確な植物オブジェクトはなかったけれど、静謐な佇まいが印象的だったのは覚園寺です。
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こちらには外国人の姿はなく、日本人が何人か、木のベンチに腰かけたりしていました。

というのも、こちらのお寺は定時に境内を案内するサービスがあるのです。
所要時間50分とのことで、この日は参加しませんでしたが、時間に余裕を持って参加したいものです。

覚園寺は、元寇が二度と来ませんようにと願いを込めて13世紀の末に整備したお寺だそうです。

あと、初秋に綺麗だったのは海蔵寺かな。

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門の前に萩がブワーなって、掻き分けて入るものでした。

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本堂の前の花々も雨上がりの青空に映えました。

ここは鎌倉時代に大きなお寺があったらしいのですが幕府滅亡とともに消失し、のちに上杉氏が再建したそうです。

お寺の一つ一つに、鎌倉時代からの歴史と、今目に見えている花や石や、見えにくい何かを発見できたら良いですね。