鎌倉検定が終わりました。
2017年11月26日(日)、マラソンクラスタの方々におかれましては各地で激戦が繰り広げられる中、わたくしは鎌倉で微動だにせず、という訳でもないですが座って鎌倉検定を受けてきました。
鎌倉検定とは、鎌倉の歴史や文化の知識を認定する試験です。
たぶん、何かの資格になるとか就職に有利とかはないと思います。
私が受けたのは3級という、エントリーレベルの最下級です。
たぶん受かったと思うけど、落ちたら落ちたでネタになるのがブログのすばらしいところでこざいます。
何が言いたいかというと、このブログをお読みくださっている皆様におかれましては、今まで鎌倉の話にお付き合いくださりありがとうございました、ということです。
食べ物ブログのはずが歴史のことばかり話し始めて、戸惑われたかもしれません。
別のブログを立てようかとも考えましたが、そこまで文書を書くキャパもなさそうな気がして、まだ検討中です。
さて、お気楽な道楽検定ではありましたが、一応受験という形ですので、僅かながらもプレッシャーはありました。
今日からはもっと自由に本を読むぜ!
って早速購入したのが、『死してなお踊れ 一遍上人伝』っていうね。
また坊さんの話かーい!
一遍さんも、鎌倉時代に新しい宗派を立てた人です。
「踊り念仏」を唱えて鎌倉にも布教しようとしましたが、警備の人に追い返されてしまう、という鎌倉との関わりを持つ人です。
まだ鎌倉の話かーい!
うーん、知りたいことがまだ止まりません。
北鎌倉の、メジャーなお寺方面とは少し違った場所にあり、なかなか訪ねる機会も少なそうなお寺ではありますが、ひっそり感を自分で分かっている感が素敵でした。
また、その周辺は坂と家並みがノスタルジックな場所でした。
さて私にとって鎌倉とは一体何なのでしょうか。
好きなの?
べ、別に
今はたぶん、鎌倉という場所を舞台にあれこれ考えて生きて死んだお坊さんや為政者に興味があるのでしょう。
自分の脚で訪ねて場所を確認できる面白さがあるのだと思います。
11月26日、検定とは全く関係ないけどなんとなく大船に集まって飲んだ際の焼きトン串の写真をお送りします。
みそ味おいしい。
懲りずに北鎌倉
こんにちは。ブログ迷走中です。
今回も鎌倉の話になってしまいました。
鎌倉のイメージの中心となる北鎌倉の禅寺ができたのは、日蓮が鎌倉にいた時代と重なっていることを知りました。
当時の鎌倉、一体どんなことになっていたのでしょう。
北条時頼は、かなり有能な執権という噂です。
乱を鎮圧し、政敵は潰しちゃう、だけど一方で何かを庇護して敵意が固まらないようにする。
幕府の統治システムを着々と整え、北条氏の支配基盤を強固にする。
辣腕を振るった一方で、信仰心が厚く、禅宗を広めるべくデカいお寺を創建する。
そんな大活躍の時頼ですが、突然31歳で出家します。
なんで出家したかって、明らかではないのですが、病気がちで自分の命は長くないものと思ったので、その後の体制を決めて既存のものにしようとしたのではないでしょうか。
そんなんで着々と事を進めてきたある日、
「狂った坊主が町の中で、政治と宗教の批判をずっとやってるんですけど」
っていうね。
そうです、日蓮の辻説法です。
このとき、最明寺入道こと時頼は、
「ほんと、やめてほしいんだけど・・・」
と思ったんじゃないかなって想像します。
そんで、「正しい仏教と、それに基づいた政治」みたいな書状が日蓮から届きます。
時頼は、出家してから隠密で諸国を見る旅に出るくらい好奇心があったらしいので、きっとその書状は熟読したことでしょう。
それで、しばらくしてから、時頼と日蓮の直接討論が実現します。
この時代にテレビがあったら空前の視聴率だったと思います。
時頼「(いや、地震や日照りの因果関係おかしくない?俺自身はすごい質素な生活して身も心も民衆のために尽くして来たんだけど)」
時頼「私は出家して禅宗を信仰しており、一方、今の将軍さまは真言宗でいらっしゃる。宗教が違ってもお互いに信仰を非難することは無い。それなのにあなた一人が他の宗派を攻撃する。特に、今この国を執りしきっている方の教義を亡国と貶めることこそ大逆ではないか」
日蓮「だからこそ申し上げているのです。亡国の教えを放置しては大変なことになる」
時頼「あなた一人だけの言葉を信じて、この国の全てと、さらに他の国々から伝わっている教えがひっくり返ると思うのですか?」
日蓮「ですから、話し合って真実を伝えようと」
話が平行線になると見た時頼は、討論の席を立ちます。
日蓮「待てぃ!」
最大の実力者に怒鳴る日蓮。
周りで聞いていた人々はチビったか漏らしたと思います。
日蓮「命を懸けて真実を申し上げております」
時頼「(もういいよ)」
(両者席を立つ)
・・・これが、鎌倉時代に鎌倉で起きたワンシーンです(想像)。
静と動。
ビジュアル的にはハゲとハゲ。
鎌倉のお寺を訪ねて、本を読んでWikipediaを読んでまた鎌倉を訪ねるのを繰り返すと、イメージが新しく立ち上がってきます。
ところで時頼はこの討論の後、自らが直接日蓮に罰を与えることはありませんでした。
何か思うところがあったのでしょう。
そんな時頼が隆興させた禅寺が、今の鎌倉観光の目玉となっている、と考えながら巡る北鎌倉です。
建長寺は今日も人々が訪れ
時頼と日蓮が討論した場所は、鎌倉の町の中にあり、今や住宅地です。
日蓮の辻説法の場所は、幕府跡に比べてしっかり残されていました。
ざっくり歩き回り、小説を読み、Wikipediaを読み、また歩くのを何度か繰り返すと、
「ここがそれか」
「そういうことだったのか」
と、現地でも本の中でもネット上でもちょいちょい気がつくことがあったのでした。
あ、本日のおみやは日蓮の辻説法跡から徒歩で5分くらい、鎌倉の農協連即売所・通称"レンバイ"の中にあるパン屋さんのあんぱんです。
なんと、あんこの中にクランベリーが入っており、モダンに美味しくなっています。
様々なおかげさまで美味しいものが食べられます。
本を読んだ翌日に場所を訪ねる。鎌倉 日蓮宗のお寺
鎌倉を勉強しようということで、山岡荘八の『日蓮』を読みました。前々回の記事でも少し触れました。
鎌倉について勉強するために私がこの小説に期待したのは、もちろん鎌倉を舞台にした大活躍だったのですが、この小説『日蓮』全1巻は、
「俺たちの戦いはこれからだ!」
みたいなところで終わっているんです。
物語の大部分は、千葉の小湊で生まれ育った若き日蓮の懊悩を描いており、鎌倉に来て幕府にケンカふっかけたあたりで終わります。
まあ、事情は想像しますけれども。
さらに、他の経典も理解しなければならなかったのではないかと考えております。
うん、仕方ない仕方ない。
小説では、取り次いだところで終わっています。
でも、なんで文書を取り次ぐだけの人が何度もフルネームで登場したんだろう?
しかも、宿屋ってマジ名字?
と気になっていました。
すると、小説を読んだ翌日に答えが目の前に現れました。
お名前がそのままお寺の名前になっていらっしゃる。
自宅の裏山の牢屋に日朗を閉じ込めたのですが、やり取りを重ねるうちに感化されて改宗しちゃったのですね。
それで、自邸をそのままお寺にしてしまったと。
お寺の裏山に実際にある牢屋です。
誰でも外側から見学できます。
光則寺は、長谷駅から大仏へ続く道の途中から逸れた場所にあるためそれほどメジャーなスポットではないかもしれませんが、歴史が垣間見える場所でした。
そのすぐ近くにある収玄寺も、元は北条一族の執事だった人が日蓮に帰依して庵を結んだ跡地なのだそうです。
長谷からどんどこ西へ向かう途中でも日蓮の足跡がいくつか見られます。
上の写真の左側、えっ、小っさ!
と思いましたが、さすがに何代も生まれ変わっているそうです。
日蓮が雨乞いしたら雨が降ったあたりと言われる石碑や池もあります。
腰越まで来ると、日蓮宗のお寺が複数ありました。
ちなみに日蓮、この龍の口で首を切られる予定だったのですが、直前に何らかの奇跡が起こり、生き延びます。
そんな本日の食糧は、光則寺近くのドイツパン屋さんBergfeldのプレッツェルです。
わーい、ビール飲みながら食べられるパンだよ。
豆腐屋さんの未来について考える
豆腐屋さんがピンチという話をテレビで見ました。
豆腐の価格は上がらないけれど、消費は減っている。
そこで私は勝手に豆腐屋さんの立場になり、どうすれば良いかを考えました。
豆腐を、豆腐単体だけではなく、豆腐料理セットとして売るのはどうでしょう。
ターゲットは単身者にします。
豆腐を調理して食べたいけれども、一食分の食材を用意すると余ってしまう。
そこで、レトルトか何かで具材を付けることにします。
これまで、麻婆豆腐の素などを別の会社が周辺を提供し、豆腐を別途購入するパターンはありました。
これを豆腐中心に転換します。
・例えば、ゴーヤチャンプルーキットはどうでしょうか。
ゴーヤを適量、スパム肉も適量。鰹節もサービスで付けましょう。独自のゴーヤチャンプルー向けのタレも付いています。
ほらね、一人暮らしではなかなか作らないけれど、セットになっていたらビールに合わせたい一品になりました。
・麻婆豆腐も、他の人と食べるときは好き嫌いで遠慮するし、一人のときはあえて買わない具材をゴロゴロ入れます。
タケノコとシイタケを適量。香ばしい風味のネギとネギ油。山椒の小袋も付けますよ。
・東南アジア風の、そんな料理は聞いたことないけどなんとなくそれっぽいやつも考えました。
・あとは、スンドゥブチゲだよねー
って、おっと?
ありましたよ。豆腐屋から出たスンドゥブチゲが。
具材は一切なくて、ひたすら豆腐と魚介辛味スープだけでしたが、濃厚で美味しかったです。
青ネギは自分で乗せました。
スーパーで買った価格は178円(税別)でした。
タンパク質が優勢で低カロリー(176kcal)で食べ応えのあるスープはアリです。
他にも、同じ会社から出ていました。
坦々豆乳スープ麺。
これもコクがあって低カロリーでタンパク質が多い。具材は少しの肉そぼろのみ。
買った価格は158円(税別)でした。
レトルトで具材を付けるのは、もしかしたらまだ価格とのバランスで難しいことがあるのかもしれません。
しかし、豆腐の新時代は来つつあるような気がするのです。
鎌倉、材木座のお寺のさらに先へ
前回、日蓮の足跡のある鎌倉のお寺について書きました。
今回はそこからさらに海岸の方へ向かいます。
強そうなクリーチャーたちを従える強そうな日蓮像があります。
実際日蓮は「偉丈夫」と伝えられています。
あの時代に新しい宗派を打ち立てるのは、房総半島から叡山や高野山を駆け回り山と積まれた経典を読み、盗賊から逃げられるだけの体力がないと成し遂げられないことだったかもしれません。
そこからさらに海へ向かうと、ちょっと驚くようなお寺がありました。
最初の門のずっと向こうにさらに大きな門があって、その遥か先に本堂みたいなのがある?
何ですかこの広さ
光明寺というそうです。
スローガンは法然共生?
法然さん、ということで、ここは浄土宗のお寺のようです。
日蓮の鎌倉入り:1253年
光明寺建立:1243年
京都で興った浄土宗の、鎌倉における一大研究センターのようなお寺で、現在でもその働きは続いている雰囲気がありました。
その先はいよいよ材木座海岸です。
材木座海岸はビーチで遠浅なので、船を付けにくかったのですね。
現在は残念ながら当時の港湾的な働きはなく、長い年月の波に削られてただの沖合いの浅瀬になっています。
上の写真の真ん中にあるペタッとしたやつがそれで、今はその周りをサーファーが盛んに行き交っています。
和賀江島の望む陸側にあるのが六角の井戸といって、海に最も近いところから水を汲み上げていました。
ここまで来ると、鎌倉の東側をひとつコンプリートした気分になれます。
が、ついついその先が気になって散歩してしまう私は、逗子市へ突入しました。
新墓地受付中。
海と緑に囲まれて。悪くない。
鎌倉〜室町と推移して戦国時代には、一つの大きな戦の舞台となったお城も山の上にあったそうです。
急坂を登って振り返る海に最果て感があります。
別の道でトンネルをくぐれば逗子方面へ抜けるのですけどね。
下の写真は、昔訪れた逗子のsurfersというカフェで、トンネルの先にあります。
何しろ海に突き出たロケーションでカリビアンかハワイアンな料理を食べられ、圧倒的にゴキゲンな場所です。
急に最後だけ雰囲気が変わってすみません。