舞鶴には2つの街がある(2) 東舞鶴
西舞鶴駅からとなりの東舞鶴駅までJR舞鶴線で6分、約7kmの距離です。
エビの尻尾のような入江の奥にそれぞれの街があり、真ん中は丘陵と森になって2つの街を隔てています。
東舞鶴にあったのは、まずレンガの建物と軍艦でした。
軍艦?いや護衛艦?適切な用語が分からなくてすみません。とにかく強そうな船です。
赤れんが博物館というのがあり、ノスタルジックな昔の文化を展示している所かと思ったら、ガチでレンガの説明をしている資料館でした。
近代化にともない、舞鶴でレンガを生産していたそうです。
イギリス式とフランス式のレンガの積み方などを実際にブロックで体験できたりして、思いがけずためになりました。
そして、レンガ資料館と入館料がセットだというので行ってみた「引揚資料館」は、テーマが重いのですが、行って良かったと思える場所でした。
戦争やシベリア抑留から帰ってきた人々を受け入れた港の一つであったのです。
66万人がこの港に降りたのです。
資料館のそばにある小高い丘を登ると、引揚者を乗せた船が入ってきた海が見下ろせます。
降雪の晴れ間、なかなか劇的な景色に出会えました。
戦争の悲惨さとか平和のありがたみとか、普通の言葉にすればありきたりなことになってしまうのかもしれませんが、例えばシベリア抑留で毎食のパンを天秤で測って寸分の違いもなくメンバーに分けなければ殴り合いになるとか、そう遠くない日本人の過去を知るにつけ、仕事の人間関係とか将来の不安といった現代の自分の悩みは何なんだろうと考えます。
心の中にこの歴史を持つことができてよかったと、数日経ってブログを書いている今でも思います。
いやまあこんな食ブログ書いてますけれども。
さて、やっと理解してきました:
西舞鶴は、戦国から江戸の城跡と漁港。
東舞鶴は、明治以降の軍港。
ランチで海鮮を検索した結果、西舞鶴に多く出たのはそういう訳なのでしょう。
カレーなどの洋食を検索していたら東舞鶴になったことでしょう。
西舞鶴のほうが時代的に早かったのは、京都方面から綾部を経由して日本海に届くのに西舞鶴のほうが近かったからと推測しました。
明治になって軍港が必要となったときに、なにげにすぐ近くの入江も天然の良港であったと。
駅も西と東なのだけど、高校も西舞鶴高校と東舞鶴高校があるし、図書館も西と東にあります。
別々の自治体でも良かったのでは・・・高校で対抗戦やったりするんですかね・・・等々、想像が広がってしまいますが、こういうのは現地まで行かなければ気が付かなかったことでした。
旅はいいねえ。