城崎にて。
志賀直哉の「城崎にて」は、たしか高校の国語の教科書に載っていたのです。
そのストレートなタイトルと癒しの内容から、いつかは訪ねたいと思いつつなかなか実現しなかった訪問がついに叶いました。ありがとうございます。
東日本に住んでいると、なかなか行かないのですよ。
山奥の渓谷沿い、急斜面に昔ながらの宿やホテルが貼り付いているのを想像していたのですが、想像の5倍は建物と街がありました。
全てがノスタルジックな調和の中にありました。
古びないけど、懐かしい。
志賀直哉が「城崎にて」を発表したのは大正年間でした。
城崎があったから「城崎にて」が書かれたのですが、「城崎にて」によってこの街の現代までが運命づけられたとも言える・・・んじゃないかな。
城崎文芸館という施設もあり、やはり「城崎にて」をフィーチャーしつつ他の文学と城崎の縁についても展示しています。
城崎はいかに描かれたのか、のみならず、現代において城崎が文学に対してできることはあるのか?まで問うている企画があったりします。
現代作家のオリジナル小説が手に入るかも?
伝統的な文学部感および現代への挑戦があるので、文学部の人および文学部に憧れる理系もぜひ。
また、文芸館の入口にある足湯もかなり良いようです。
浸っているおばちゃんに「おすすめ」と言われました。
城崎には街の中に無料の足湯が複数あり、旅人を癒やします。
城崎の推し食材も基本的にはカニでして、冬の日本海におけるカニの強さを実感します。
と、この文章を書きかけているときにテレビでハイヒールモモコさんが
「大阪人は恒例行事で冬に城崎へカニ食をべに行く」
といったことをおっしゃいました(うろ覚え)。
あれ?文学・・・というかカニなの?城崎
もし城崎で夕飯のタイミングになりカニを頼まなかったら
「何しに来たん?カニアレルギーなん?」
と思われたのかもしれません。
私が訪ねたのは午後でしたので、食べ歩きで手っ取り早いカニグルメです。
カニまん。
カニシウマイが中身になったようなもんでしょ、という予想の少し上を行く、カニ感ある中華まんでした。よかった。
あとは街の写真を貼っていきます。
足湯を複数配置し、街歩きを楽しめて、風情のある城崎・・・と思いきや大阪人のカニパラダイスの側面もあるらしき街でした。
ついに天橋立。
旅というと、行ったことのない場所へ行くのもモチベーションの一つでしょう。
今回はまさにそれ、日本三景と言われていますが、この歳まで天橋立には行ったことがありませんでした。
ちなみに日本三景の他の2つは、松島と宮島です。って正直わすれてました。
宮島と天橋立が混ざって、瀬戸内海に天橋立があるイメージすら持っておりました。
以前の記事で使用したイメージを流用しつつ確認です。
若狭湾。
ココ。
ココです。
今回ですね、とても良かったのが早朝の温泉でして、写真を撮れなかったので文字情報でお伝えします。
朝6時半前に、温泉ホテルの屋上にある露天風呂に入りました。
2月上旬、西日本なので日の出の時刻が遅いです。
<日の出時刻>
宮津 6:53 東京 6:35
まだ暗いよな、おまけに今日は雨か雪だというし、真っ暗で終わりかなと思いつつ露天風呂に浸かっていると、急に天から落ちてきたのはアラレでした。
丸い小さな塊が露天風呂の床に落ち、あるものは消えあるものは僅かにバウンドし、湯に入ったアラレは消え行き、風流なことであると眺めているうちに、天は薄明へと移りました。
全体的に青黒いものの、かすかに天橋立の輪郭が見えます。
やがてアラレは小止みとなり、終わりかと思ったら次に降ってきたのは綿のような大量の雪でした。
空の変化の早さに驚いているうちに次第に明るくなりました。
アラレだ雪だ止んだと短い周期で変化する雲は強いコントラストを持ち、ずいぶん低い高度で次々と日本海側から、天橋立の上を飛んでは去るのでした。
その時の写真は撮れなかったのですが、温泉から上がった後の景色はこちらです。
真ん中に水平にある黒い帯が天橋立です。
雲が急ぎすぎて晴れてたようになっておる。
薄明の露天風呂あら上がって朝食ビュッフェも美味しかったです。
ハタハタは脂が乗り、あら汁もコクがあっておかわりしました。
あと、黒い納豆が出た、さすが丹波・丹後?
味は普通の納豆なのもおもしろい。
そんでもって、天橋立を歩いて渡りますよ。
パッと晴れたり急に雪が降り出したり目まぐるしい天気でしたが、これが冬の日本海らしさなのかもしれないと、両側を海に囲まれた道で堪能しました。
下の写真は何かの海鳥です。親鳥たちは冷たい海の上でも休めますが、子供たちは海に入れない状態なのだと、通りがかりのおじさんが教えてくれました。
かわいい。
そしてついに、ケーブルカーで登って丘の上から天橋立を見ます。
やっほーい。
昔の人は、そりゃあ神様がいたと思いますわな。
以上、天橋立でございました。
舞鶴には2つの街がある(2) 東舞鶴
西舞鶴駅からとなりの東舞鶴駅までJR舞鶴線で6分、約7kmの距離です。
エビの尻尾のような入江の奥にそれぞれの街があり、真ん中は丘陵と森になって2つの街を隔てています。
東舞鶴にあったのは、まずレンガの建物と軍艦でした。
軍艦?いや護衛艦?適切な用語が分からなくてすみません。とにかく強そうな船です。
赤れんが博物館というのがあり、ノスタルジックな昔の文化を展示している所かと思ったら、ガチでレンガの説明をしている資料館でした。
近代化にともない、舞鶴でレンガを生産していたそうです。
イギリス式とフランス式のレンガの積み方などを実際にブロックで体験できたりして、思いがけずためになりました。
そして、レンガ資料館と入館料がセットだというので行ってみた「引揚資料館」は、テーマが重いのですが、行って良かったと思える場所でした。
戦争やシベリア抑留から帰ってきた人々を受け入れた港の一つであったのです。
66万人がこの港に降りたのです。
資料館のそばにある小高い丘を登ると、引揚者を乗せた船が入ってきた海が見下ろせます。
降雪の晴れ間、なかなか劇的な景色に出会えました。
戦争の悲惨さとか平和のありがたみとか、普通の言葉にすればありきたりなことになってしまうのかもしれませんが、例えばシベリア抑留で毎食のパンを天秤で測って寸分の違いもなくメンバーに分けなければ殴り合いになるとか、そう遠くない日本人の過去を知るにつけ、仕事の人間関係とか将来の不安といった現代の自分の悩みは何なんだろうと考えます。
心の中にこの歴史を持つことができてよかったと、数日経ってブログを書いている今でも思います。
いやまあこんな食ブログ書いてますけれども。
さて、やっと理解してきました:
西舞鶴は、戦国から江戸の城跡と漁港。
東舞鶴は、明治以降の軍港。
ランチで海鮮を検索した結果、西舞鶴に多く出たのはそういう訳なのでしょう。
カレーなどの洋食を検索していたら東舞鶴になったことでしょう。
西舞鶴のほうが時代的に早かったのは、京都方面から綾部を経由して日本海に届くのに西舞鶴のほうが近かったからと推測しました。
明治になって軍港が必要となったときに、なにげにすぐ近くの入江も天然の良港であったと。
駅も西と東なのだけど、高校も西舞鶴高校と東舞鶴高校があるし、図書館も西と東にあります。
別々の自治体でも良かったのでは・・・高校で対抗戦やったりするんですかね・・・等々、想像が広がってしまいますが、こういうのは現地まで行かなければ気が付かなかったことでした。
旅はいいねえ。
舞鶴には2つの街がある(1) 西舞鶴
舞鶴(まいづる)は、京都府に属しつつ日本海に面している街です。
正直、昔は神奈川県の真鶴(まなづる)と混同していました。
いずれも素敵な街なんですよ。
で今回尋ねた舞鶴のほうなんですけど、日本列島の中での場所のイメージをお伝えします。
本州の腰が反った、尾骶骨あたりですね。
近づいて見ると若狭湾がえぐれていて、湾の南西部にあります。
若狭湾、拡大するとめちゃギザギザしています。
さらに拡大すると、エビの尻尾のように2つの入江があるのでした。
駅も「舞鶴」駅というのは無くて、東舞鶴と西舞鶴があり、エビの尻尾の入江にそれぞれあります。
舞鶴に近づいたのはお昼時だったので、日本海の海鮮を食べようと検索すると、西舞鶴のほうが多いようでした。
西舞鶴のほうが飲食店が多いのかな?とそのときは思ったのですが、そうでもないことが後々分かってきます。
ひとまずお昼は、西舞鶴の道の駅「舞鶴港とれとれセンター」内で飲食できる店にしました。
・・・正直、いかにも解凍後の食感でシャビシャビしていて期待したほどの味ではありませんでしたが、しかし映えるしとにかく冬の日本海はカニ推しで来るので、
「たっぷりカニ食べたった」
という安心感は得られました。
全然映えないけど、実は刺し盛りのほうが美味しかったです。
鯛もハマチもちゃんと市場の目利きが選んだような歯ごたえと脂でした。
そして、へしこがね、丸ごと売ってるの。
日本酒がいくらあっても足りないわ。
サバは丸ごと串刺しで売ってるの。
フランクフルトみたいに食べるのかい?
ビールが呼んでいるわ。
日本海の海鮮を堪能したら、次の目的地は西舞鶴の中心にある田辺城です。じゃん。
こちら、細川藤孝のちの細川幽斎と、その息子の細川忠興が過ごしたお城です。
細川藤孝は明智光秀の盟友と言われていますから、2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」で微妙にこの田辺城も関われる・・・のか・・・?
お城の門の遠慮がちなアピールも良かったです。
歴史で言うと、細川藤孝と明智光秀は、織田信長の司令のもと、丹後国に元々いた守護大名の一色氏を追い出したのでした(1578年)。
1578年、なにげに明智光秀の娘と細川藤孝の息子が結婚します。
1580年、細川家は丹後に領地を与えられ、天橋立のある宮津に住み、ついで交通の要衝である隣の舞鶴に城を定めました。
その後1582年、ご存知のとおり、
明智光秀は本能寺の変からの山崎の戦いにてこの世に別れをつげました。
・・・ここまでが2020年の大河ドラマになることでしょう。
実は田辺城にはもう一つハイライトがあり、
それは1600年、関ヶ原の戦いに関連する籠城戦です。
家康の東軍に味方した細川家は、この舞鶴の田辺城で西軍に囲まれてしまいます。
このとき、細川藤孝は隠居して息子に家督を譲り細川幽斎と名前を変えていたのですが、田辺城に入城して西軍を迎え撃ちます。
(現在はちょっとした池と庭園になっています)
このお城は川が天然の堀になっているものの、完全に平城なので一気に西軍15000人(一方の籠城軍は500人の説)に攻められたらさすがに陥落すると思いきや、
「待った」
をかけたのが時の天皇です。
「細川幽斎が死んだら伝統文化(特に「古今伝授」という古今和歌集の秘伝)が途絶える」
って、そんなふうにして守られたのがこの田辺城です。細川氏どんだけー。
明智光秀は1582年に死んでしまうので、この1600年の出来事はおそらく2020年の大河では描かれないでしょう。惜しい。
田辺城、現在は跡地に木造の模擬櫓と小さな資料館があり、ボランティアのおじさま方が説明してくださいます。
日本海の海鮮と歴史を堪能いたしました。
さて、どうやら舞鶴には東にもう1つの街があるようだから行ってみよう。
というのは次回にいたします。
岩槻に点在するノスタルジーを拾う
岩槻市って、もう無いのですね。
訪ねる前日まで知りませんでした。
そんな岩槻に、かつてお城がありました。
岩槻城は15世紀の半ばぐらいにできたと推測されています。
築城者は太田道灌または成田氏の説が有力です。
史料で裏付けられるのは16世紀になってからで、関東のゴタゴタの中で太田氏が城を取っています。
その後は、
関東に進出した小田原北条氏に太田氏が城を奪われる
→ 家康が江戸に入封
→ 江戸時代は岩槻藩
となっています。
江戸時代を通じて城下町だったのが幸いです。
懐かしいような面影が今も微かに残っていました。
鈴木酒造さんにて
1Fの販売スペースの後ろの階段を登ると、2Fは展示スペースというか屋根裏のような、ちょっとした秘密空間でした。
無料ですが、お店の方に声をかけて入ります。
桶たち~
徳利とか容器~
そしてお酒を製造する道具の数々~
天井が低くて屋根裏感があり、ノスタルジーが押し寄せます。
販売コーナーでお手軽な小瓶「大手門」を買いました。
柔らかで湧き水のような口当たりです。
近くには江戸時代の藩校の建屋も残っています。遷喬館といいます。
靴を脱いで中に入れます。
日本家屋、落ち着きます。
建屋の規模は萩の松下村塾に近く、「よく小さいスペースにたくさん集まって勉強したなあ」という感想を持ちました。
藩校の前の道は、武家屋敷の街並みだったであろうストリートです。
この道の奥に「時の鐘」があります。
時の鐘というと川越が有名ですが、ここも似た文化圏だったのでしょう。
姿もどことなく似ています。
江戸時代には実際に鐘を鳴らして時間を知らせていました。
ねこ
からの、やっと岩槻城跡です。
道中が楽しすぎて、駅からなかなか辿り着きませんでした。
岩槻城、独特です。
各曲輪(広場みたいなとこ)が、島状に独立していた?
荒川のほとりで度重なる蛇行が生んだ沼沢地と微高地なのでしょう。
残念ながら、現在残るのは南東の新曲輪のみです。
本丸やその周辺は今や住宅地になっています。
目の前に見える広場は、往時は沼の底だったっぽい。不思議な感じです。
現代では沼は縮小し、南東隅にあります。
なんか、8回折れ曲がった赤い橋が架かっていて面白い。
で、岩槻城には総構(そうがまえ)またの名を大構(おおがまえ)があったそうです。
総構とは、お城本体の周りにある武家屋敷や一部町人街まで大きく囲んだ防御施設で、土塁またはお堀あるいはその両方があります。
総構といえば小田原城が有名ですが、小田原は一周10km、岩槻城は8kmです。
それらしき場所を昔の地図と重ね合わせながら辿ってみたところ、まっすぐな現代道路に対してゆるく曲がっている所だと分かってきて楽しくなりました。
細長い緑地帯が、見ることのできる遺構の一部なのでしょう。
帯状にちょっと盛り上がっていて、その横はちょっと凹んでいます。
総構の内側に、久伊豆(ひさいず)神社があります。
正月も5日だというのに人通りが絶えませんでした。元日は大いに盛り上がったことでしょう。
ところで久伊豆って「クイズ」と読むと思っていました・・・クイズであってほしかった。すみません。
出雲が大もとだったと伝えられています。
そうそう、岩槻へ行くなら強くお勧めするのが郷土資料館です。
昭和5年の建築で、最初は警察署だったそうです。
小さな建屋で展示もシンプルですが、内装がたまりません。
岩槻城をメインに、発掘された石器から農村の暮らしまでコンパクトに展示されています。入場無料。
郷土資料館の近くに、これまた古めかしい建屋の和菓子屋さんがありまして、買ってみました。
街道沿いの古い建屋で栗羊羹など売っているということは、伝統あるお店に違いありませんが、洋風のテイストに挑戦するのが頼もしいです。
金柑入り城下町パイは、予想より思い切って金柑がまるごと入っており、周囲を餡が埋める形で爽やかに和洋テイストがまとまっていて美味しかったです。
「城の月」はモナカ片側にぎっしりナッツが乗っていて、なるほどコーヒーに合います。
この日に岩槻で訪ねた場所はこれで全てではないのですが、書ききれないのでそろそろまとめます。
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・近代的な街並みの中に、ノスタルジックな建物がコンパクトに点在する。
・大宮・浦和連合軍(さいたま市)に飲み込まれつつある。「市の歴史」になるとさいたま市になってしまう。
・大宮・浦和連合軍に抗う様子は特に見られない。
・なにげに総構を持っていた。
・元々のお城は個性的っぽいけど今では分からない。
とにかく歩くのが楽しくて、あっさり予定時間オーバーしました。
城跡公園と久伊豆神社以外はどこも見学者が私一人だけで、ゆったりしました。観光客よ何処。
大河ドラマを・・・とまで言える知名度ではないと思いますが(失礼)、ポテンシャルはあると思います。岩槻の灯火よ消えないでください。