年を越せないってどういうこと?笠地蔵から考えた
幼い頃に絵本で読んだ「笠地蔵」に、
「おじいさんとおばあさんは笠が売れないと年を越せません」
と書いてありました。
年を越せないとはどういうことだろう?
幼い私はなんとなく、大人の言葉でいうと「世間一般の人が正月を迎えるために必要な飾りや食材を買うことができない」
という状況を想像していました。
一方で
「年末年始は食糧を購入できないため、事前にある程度まとめ買いしなければならないが、まとめ買いできるほどの資金が無い」
という可能性もあると思いました。
いや、子供なので社会的な観点からの分析は無理なんですけど、なんとなくやんわりと、その2つの可能性をイメージしていたのだと思います。
この2つのうちのどちらが正しいのか、未だに明確な答えは出ないまま、私は年末に食べ物をいただくと
「いやーありがとうございます。おかげさまで年が越せます」
なんて返しております。
コンビニや冷凍技術が無かった時代を想像してみましょう。
お店も全部閉まっていて、食糧の調達手段が無いのです。
森のリスよろしく、保存のきく越冬の食糧備蓄の必要があったのではないでしょうか。
おせち料理は、ごく最近でこそローストビーフとかサラダとかカルパッチョとか言うてますけど、
昭和ならばカマボコ、黒豆、伊達巻、昆布巻、なます、小魚の佃煮など(地方差あり)、日持ちするメニューでした。
すなわち、庶民が「年を越す」というのは、フィジカルにsurviveすることと、儀礼的・形式的に新年を迎えることとの、統合形というのが現在の私の考えです。
ところで、もう何十年も真面目に読んでいなかった「笠地蔵」ですが、
現在の絵本は
「笠が売れないと、正月の餅を買えません」
という記述が多いようです。
なるほど、「餅を買えない」だと状況が具体的ですね。
現代のお子様でも、お餅を買えないおじいさんとおばあさんの経済状態に同情できることでしょう。
さて諸事情により、私は東北の故郷に帰省せず単身で年末年始を首都圏で過ごして十年以上になります。
低所得でも、なんならコンビニでドリアだのパスタを元日から食べられる現代において、
「年を越すのが大変」
とはどういうことなのだろうと、年末年始に毎回考えてしまうのです。
写真は、大晦日にいただいた、ちよだ鮨のさば寿司と海鮮軍艦です。
大晦日に生ものをいただいてしまいました。ありがたい時代です。
お正月には簡易なお汁粉をいただきました。お椀ではなくマグカップですね。
あけましておめでとうございます。