読むめし

口で咀嚼するたけでは足りず、観念でも食べ物を愛でようとする人間

備中松山城の麓の頼久寺の文化そして「ゆべし」

備中松山城の城下町である岡山県高梁市を歩いていたら、なかなか立派なお寺がありました。


f:id:baroclinic:20181028125955j:image

なになに、足利尊氏が諸国に建てた安国寺の一つ。


f:id:baroclinic:20181028145128j:image

足利尊氏・直義兄弟は、鎌倉幕府滅亡や建武の新政、南北著の争乱などで亡くなった人々を弔うために、全国に六十あまりのお寺を建てたことを、ネットで調べて知りました。

 

彼らってそんなに信心深かったっけ?

と思ったのですが、足利尊氏夢窓疎石に出会っていたのですね。

 

夢窓疎石とは、お坊さんであり、臨済宗の巨匠であり、後醍醐天皇から「国師」の称号を与えられた、鎌倉検定必出の最重要人物です。

鎌倉では、瑞泉寺の庭園を設計しています。

 

この岡山のお寺は建立後、途中でやや寂れましたが、上野頼久という人が中興の祖となり、その人にちなんで「頼久寺(らいきゅうじ)」とが寺号となりました。

 

そんで、江戸時代の初頭にここに住み、現代まで続く庭を作ったのは小堀遠州なのですね。


f:id:baroclinic:20181028135407j:image

小堀遠州って、昔の文化人かな?

ぐらいの認識しかありませんでしたが、安土桃山時代から江戸時代にかけての茶人、建築家、作庭家、書家にして、なおかつこの備中松山の藩主でした!Wikipediaより。


f:id:baroclinic:20181028135816j:image

その小堀遠州が直々に居住かつ設計した枯山水の庭を、平日だったので独り占めできました。

貸切り状態ってやつです。
f:id:baroclinic:20181028140106j:image

小堀遠州プロデュースとか、ちょっと名前を貸して監修にしたとかではなく、実際に住んで、自分が納得するように作った庭ッス。
f:id:baroclinic:20181028140700j:image

ここでふと、文化の流れを考えてみました。

 

鎌倉時代に東国へと政治の中心が移り、足利氏も東国の武士であったが、鎌倉幕府が倒れるに及び、京都に中心を戻すことになった。

 

→東国武士の、京都の文化への憧れ

武家が公家を取り込む必要性

 

この2点から室町文化が発展したのではないか?

そしてそれは、鎌倉武士が支持した禅宗と京文化の融合だったのでは?

 

って、山川の日本史の教科書を確認したところ、東アジアとの交易が活発になったことと、惣村と都市の民衆の生活レベルが上がったことが挙げられていました。

いずれ、公家、武家、庶民が同様なものを愛好して文化が洗練されて行ったと。なるほど。

 

室町時代に形成されたワビサビの文化は、戦国時代になるとサムライの趣味や哲学となり、混乱の世が煮詰まって江戸時代に至り、小堀遠州が一つの集大成となった −

 

と、この頼久寺にて、私のイメージの中では、夢窓疎石から小堀遠州への流れがつながりました。

 

そして小堀遠州、この地方の柚子を使った「ゆべし」まで考案しちゃったね。


f:id:baroclinic:20181028143213j:image

現代でもお土産として売られています。

 

くるみゆべしを食べ慣れている身としては、柑橘風味があると食感と相まってガムみたいだと正直思いましたが慣れると程よくお腹にたまります。歴史の流れの一部として食べ物を身体に摂り込めたのは意義深いことである。

 

食べ物ブログとしてここまでやってきて、これほど歴史・文化と散歩と食べ物がつながったのは初めてかもしれません。