読むめし

口で咀嚼するたけでは足りず、観念でも食べ物を愛でようとする人間

鎌倉で鎌倉末期と南北朝~観応の擾乱の史跡を訪ねる 2

2018年10月6日の鎌倉探訪、前回の記事で日野俊基卿の墓所まで行きましたが、今回はその続きです。

baroclinic.hatenablog.com

今回は鎌倉幕府が滅びます。

 

おさらいとして、大まかな流れを載せておきます。

 

  1. 鎌倉幕府末期: 後醍醐天皇足利尊氏などが、鎌倉幕府を倒す。
  2. 建武の新政: 後醍醐天皇が京都で新しい政治体制を敷く。
  3. 南北朝: 後醍醐天皇と足利氏が対立する。
  4. 観応の擾乱: 南北朝の対立のうえに、北朝内部で足利尊氏と弟の足利直義が対立する。
  5. 南北朝の収束: 足利尊氏も直義も死去し、足利尊氏の孫である足利義満南朝を吸収して南北朝を収束させる。

 

 

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1-4 稲村ヶ崎

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日本史のハイライトに入るであろう、ビビッドでダイナミックな出来事がここで起こりました。

 

足利尊氏と同時並行的に幕府へ反旗を翻した新田義貞は、難攻不落と言われた鎌倉の地へ、この断崖の直下の海を経由して侵入します。

 

太平記では、新田義貞がここで戦勝祈願のために太刀を海に投げ入れたところ、潮が引いたのでその隙に海を渡ったと記述しています。

 

現代人から見たら眉唾なのですが、しかしとにかく新田義貞はこの場所から鎌倉に攻め行ったことは事実のようです。


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こちら、稲村ヶ崎を西側すなわち鎌倉側から撮った写真です。

 

何度もこの場所の近くを通ったとこがありますが、ただの岩塊という認識でした。

こうして改めて歴史を踏まえて見ると、

「こんな場所を渡ってきたのかよ!」

という驚きを禁じえません。


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稲村ヶ崎の岩塊のてっぺんがちょっとした広場になっており、そこから東に江ノ島が見えます。

 

稲村ヶ崎の駅にて、いとけなき稚児、母君に

「いまなんじ?」

と問ひけるに、我

「そーね、だいたいねー」

と独りごちたり。

 

1-5 東勝寺と腹切やぐら


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稲村ヶ崎を越えて鎌倉へ侵入した新田義貞に追い詰められた北条高時は、鎌倉の東勝寺で自害し、ここで鎌倉幕府は滅亡しました(1333年)。

 

現在は建物は無く、フェンスで囲まれた草原になっています。

北条高時は一族郎党とともに東勝寺を焼いて自害したと言われ、鎌倉幕府滅亡時にできたらしき数十cmの炭の層がここにあるとか、なかなかリアルな怖さがあります。


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東勝寺の裏の斜面には腹切やぐらがあり、怖い話もあるようですが、私はあえて読んでおりません。

 

 

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怖いところで終わってしまったので、ここで鎌倉のスイーツをば。

 

若宮大路の並びで見つけたお菓子とジャムのお店Romi-Unie Confitureで「カトルカール」というケーキを買ってみました。


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フランス語でパウンドケーキの意味だそうですが、実感としてはシフォンケーキとパウンドケーキの間くらいの固さで、カステラよりもドライできめ細やかです。

バターと卵の風味たっぷりで、ファンタジー世界のお菓子のよう。おいしいです。

 

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鎌倉幕府が滅んでしまいましたが、次回へ続きます。