舞鶴には2つの街がある(1) 西舞鶴
舞鶴(まいづる)は、京都府に属しつつ日本海に面している街です。
正直、昔は神奈川県の真鶴(まなづる)と混同していました。
いずれも素敵な街なんですよ。
で今回尋ねた舞鶴のほうなんですけど、日本列島の中での場所のイメージをお伝えします。
本州の腰が反った、尾骶骨あたりですね。
近づいて見ると若狭湾がえぐれていて、湾の南西部にあります。
若狭湾、拡大するとめちゃギザギザしています。
さらに拡大すると、エビの尻尾のように2つの入江があるのでした。
駅も「舞鶴」駅というのは無くて、東舞鶴と西舞鶴があり、エビの尻尾の入江にそれぞれあります。
舞鶴に近づいたのはお昼時だったので、日本海の海鮮を食べようと検索すると、西舞鶴のほうが多いようでした。
西舞鶴のほうが飲食店が多いのかな?とそのときは思ったのですが、そうでもないことが後々分かってきます。
ひとまずお昼は、西舞鶴の道の駅「舞鶴港とれとれセンター」内で飲食できる店にしました。
・・・正直、いかにも解凍後の食感でシャビシャビしていて期待したほどの味ではありませんでしたが、しかし映えるしとにかく冬の日本海はカニ推しで来るので、
「たっぷりカニ食べたった」
という安心感は得られました。
全然映えないけど、実は刺し盛りのほうが美味しかったです。
鯛もハマチもちゃんと市場の目利きが選んだような歯ごたえと脂でした。
そして、へしこがね、丸ごと売ってるの。
日本酒がいくらあっても足りないわ。
サバは丸ごと串刺しで売ってるの。
フランクフルトみたいに食べるのかい?
ビールが呼んでいるわ。
日本海の海鮮を堪能したら、次の目的地は西舞鶴の中心にある田辺城です。じゃん。
こちら、細川藤孝のちの細川幽斎と、その息子の細川忠興が過ごしたお城です。
細川藤孝は明智光秀の盟友と言われていますから、2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」で微妙にこの田辺城も関われる・・・のか・・・?
お城の門の遠慮がちなアピールも良かったです。
歴史で言うと、細川藤孝と明智光秀は、織田信長の司令のもと、丹後国に元々いた守護大名の一色氏を追い出したのでした(1578年)。
1578年、なにげに明智光秀の娘と細川藤孝の息子が結婚します。
1580年、細川家は丹後に領地を与えられ、天橋立のある宮津に住み、ついで交通の要衝である隣の舞鶴に城を定めました。
その後1582年、ご存知のとおり、
明智光秀は本能寺の変からの山崎の戦いにてこの世に別れをつげました。
・・・ここまでが2020年の大河ドラマになることでしょう。
実は田辺城にはもう一つハイライトがあり、
それは1600年、関ヶ原の戦いに関連する籠城戦です。
家康の東軍に味方した細川家は、この舞鶴の田辺城で西軍に囲まれてしまいます。
このとき、細川藤孝は隠居して息子に家督を譲り細川幽斎と名前を変えていたのですが、田辺城に入城して西軍を迎え撃ちます。
(現在はちょっとした池と庭園になっています)
このお城は川が天然の堀になっているものの、完全に平城なので一気に西軍15000人(一方の籠城軍は500人の説)に攻められたらさすがに陥落すると思いきや、
「待った」
をかけたのが時の天皇です。
「細川幽斎が死んだら伝統文化(特に「古今伝授」という古今和歌集の秘伝)が途絶える」
って、そんなふうにして守られたのがこの田辺城です。細川氏どんだけー。
明智光秀は1582年に死んでしまうので、この1600年の出来事はおそらく2020年の大河では描かれないでしょう。惜しい。
田辺城、現在は跡地に木造の模擬櫓と小さな資料館があり、ボランティアのおじさま方が説明してくださいます。
日本海の海鮮と歴史を堪能いたしました。
さて、どうやら舞鶴には東にもう1つの街があるようだから行ってみよう。
というのは次回にいたします。