読むめし

口で咀嚼するたけでは足りず、観念でも食べ物を愛でようとする人間

矢作川を渡る

かなり遅くなってしまったけれど、8月半ばの散歩の様子をお知らせします。

 

三河一向一揆は1563年、家康公が人質生活から桶狭間の戦いを経て解放され、やっと岡崎城に戻ったのも束の間、21歳の若き当主に降りかかった試練でした。

 

ちなみに家康の父の広忠は24歳で死んでいるし、祖父の清康も家康が生まれるずっと前に20代で死んでいます。

 

というわけで、人質から戻った若様、ごく地元で勃発してさらに家臣の一族も敵味方に別れる混沌の難局に当たることになりました。

 

この日に訪ねた浄珠寺は、この三河一向一揆のときに家康が陣地にしたと言われるお寺です。

岡崎城から南に3kmほどで、矢作川の東側にあります。

 

一方敵方となる三河一向一揆の最大勢力は矢作川西岸、西岡崎の上宮寺にあったと言われています。

 

岡崎城と浄珠寺と上宮寺の位置関係を見たところ、


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あれ?意外と三角形?

岡崎城を守るように家康側の陣地があるかと思ったら、そうでもありませんでした。

 

実際に浄珠寺に行ったところ、地形はほとんど平らで特に砦に適しているわけでもありませんでした。


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お城を守るわけでもなく砦にもならないこの場所がなぜ陣地だったのか。

 

おそらく、このすぐ近くにある「大久保一族発祥の碑」がヒントでしょう。


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三河一向一揆では多くの一族が敵味方に別れる中、大久保一族は全員家康側につきました。

その土地的な信頼感と、あと浄珠寺の宗派が家康側の浄土宗だったのが大きかったのでしょう。。

それと、やっぱり矢作川を挟んで敵方と対岸になることですね。

 

というわけで一揆方の陣地へ行くべく矢作川を渡ります。

 

これが大変でした。

2019年8月14日、大きな台風が列島に近づいてきた日、橋の上で

驟雨

からの強い日差し

いきなり突風

それらのランダムな発生あるいは同時発生

 

で、傘が壊れましたね。

傘のみならず、私の顔面も過酷な各種自然現象に晒されて、劣化を通り越して風化するかと思ったほどでした。

岩石だったらひび割れて砂粒になるプロセスです。

 

「渡橋」という、ツッコミを入れたくなる名前の橋を西岸へ渡ると、橋の少し北に神社、その後に「鳥居一族発祥の碑」があります。


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橋から見て、きっとあの林の所だろうと分かります。


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ほらね。


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神社の後に回ると、赤い鳥居と石碑と墓石がありました。


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鳥居家も松平家に忠実に仕えた一族で、エピソードを読むたびに泣けます。

 

ちなみにここの町名が「渡」というようで、「渡橋」は地名から取った名前のようです。

 

矢作川の渡し場で、そこを守っていたのが鳥居家と神社だったのだろうと想像します。

 

とにもかくにも、川を渡るのは現代の真っ直ぐな橋でさえ大変だったのだから、橋のない時代はよっぽどだっただろうと実感しつつ、さらに西へと田んぼのまっすぐな道を歩きます。

 

上宮寺はJR西岡崎駅の南にあります。


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建物がいわゆるお寺っぽくなくて、モダンでありつつ普通には無いデザインで、独特の空気がありました。

 

しかしこの場所も平地です。

 

そういえば富山・石川を散歩したときも、浄土真宗のお寺は豊かな田んぼの周縁の集落の中にありました。

 

農民の集会所のような役割もあったのかなとそのときは思いましたが、このお寺もそうなのかは分かりません。

 

若き家康が矢作川を挟んで何度か野戦をしたことと家臣団が2つに割れたことが、結果的に後の戦いの原型になったのかなあと考えつつ電車に乗って帰路につきました。

 

ごめん今回食べ物なしです。