読むめし

口で咀嚼するたけでは足りず、観念でも食べ物を愛でようとする人間

本を読んだ翌日に場所を訪ねる。鎌倉 日蓮宗のお寺

 

鎌倉を勉強しようということで、山岡荘八の『日蓮』を読みました。前々回の記事でも少し触れました。

 
鎌倉について勉強するために私がこの小説に期待したのは、もちろん鎌倉を舞台にした大活躍だったのですが、この小説『日蓮』全1巻は、
「俺たちの戦いはこれからだ!」
みたいなところで終わっているんです。
 
物語の大部分は、千葉の小湊で生まれ育った若き日蓮の懊悩を描いており、鎌倉に来て幕府にケンカふっかけたあたりで終わります。
 
まあ、事情は想像しますけれども。
 
すなわち、当時かなりの高僧でも読み終えるのが難しかった法華経に基づいて日蓮が論駁しているため、それを描こうとしたら法華経を理解して裏を取らなければならないかもしれません。
さらに、他の経典も理解しなければならなかったのではないかと考えております。
 
うん、仕方ない仕方ない。
 
でね、日蓮にびっくり激怒した鎌倉幕府の周辺の人々の名前が小説の終盤にいろいろ出て来るのですが、彼らのその後が気になっておりました。
 
宿屋光則は、鎌倉幕府の官僚で、日蓮からの幕府批判の文書を執権に取り次ぐ役割だった人です。
 
小説では、取り次いだところで終わっています。
 
でも、なんで文書を取り次ぐだけの人が何度もフルネームで登場したんだろう?
しかも、宿屋ってマジ名字?
 
と気になっていました。
 
すると、小説を読んだ翌日に答えが目の前に現れました。
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お名前がそのままお寺の名前になっていらっしゃる。
 
宿屋さん、日蓮の文書に激怒した執権から、日蓮の弟子の日朗を捕らえる役目を仰せつかります。
 
自宅の裏山の牢屋に日朗を閉じ込めたのですが、やり取りを重ねるうちに感化されて改宗しちゃったのですね。
 
それで、自邸をそのままお寺にしてしまったと。
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お寺の裏山に実際にある牢屋です。
誰でも外側から見学できます。
 
光則寺は、長谷駅から大仏へ続く道の途中から逸れた場所にあるためそれほどメジャーなスポットではないかもしれませんが、歴史が垣間見える場所でした。
 
そのすぐ近くにある収玄寺も、元は北条一族の執事だった人が日蓮に帰依して庵を結んだ跡地なのだそうです。
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長谷からどんどこ西へ向かう途中でも日蓮の足跡がいくつか見られます。
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日蓮袈裟掛けの松は、腰越へ処刑されに向かう日蓮が袈裟を掛けたという松で・・・
 
上の写真の左側、えっ、小っさ!
 
と思いましたが、さすがに何代も生まれ変わっているそうです。
 
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日蓮が雨乞いしたら雨が降ったあたりと言われる石碑や池もあります。

 
腰越まで来ると、日蓮宗のお寺が複数ありました。
 
こうして見ると、鎌倉市の東の端である名越切通し付近に安国論寺があり、西の端にも日蓮宗のお寺、そして実は、藤沢市にギリギリ入ったところに「龍の口」という、日蓮の処刑場がありまたお寺もあります。
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ちなみに日蓮、この龍の口で首を切られる予定だったのですが、直前に何らかの奇跡が起こり、生き延びます。

 
鎌倉幕府に殴り込み、論理で説いて多くの人を納得させて、お寺はできるし聖蹟が残って今に伝わっているのを見ると、当時の圧倒的なパワーを思わずにはいられません。
 
そんな本日の食糧は、光則寺近くのドイツパン屋さんBergfeldのプレッツェルです。
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わーい、ビール飲みながら食べられるパンだよ。
 
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1番人気と書かれていたクルミとバターのケーキもいただきます。
 
飾りがなくて食材をギュッと詰め込んだ素材を切り分けただけなのがドイツらしいですね。
 
小町通りで団子食ってるだけでは済まない鎌倉、東西方向に歩くと日蓮のことが少し分かりました。