読むめし

口で咀嚼するたけでは足りず、観念でも食べ物を愛でようとする人間

吉川さんの岩国という街

山口県岩国市にどんな歴史があるのか、江戸時代は誰が治めていたのか、そもそも城があったのかさえ知りませんでした。

錦帯橋、形はイメージできたけど、それが岩国にあるものだとは、訪ねる直前まで知りませんでした。

その程度の予備知識からの訪問です。

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何故こんな橋があるのでしょうか。

お城と城下町を結ぶ橋なのですが、間にある川が氾濫してたびたび橋が流されてしまうため、試行錯誤を繰り返した結果この形になったらしいです。

さて、江戸時代にその城主になったのは、吉川(きっかわ)さんで、戦国時代に中国地方をだいたい制覇した超つよい毛利元就さんの孫です。

ここでまた関ヶ原なんですが、西軍の総大将として担がれて、家康に敗れた毛利家は、ムギューっと中国地方の領地を縮められて山口県一つに押し込められます。

毛利家は石田三成率いる西軍と決まったものの、内部では元就の次男の息子である吉川広家が「東軍に付いたほうがいいんじゃね?」って家康と内応します。

結果的に家康にほとんどの領地を召し上げられた毛利家ですが、吉川さんに関しては、内応していたのだから東軍の勝利に貢献したとみなされて、江戸幕府から岩国を与えられました。

だけど、毛利側にしてみたら、吉川のせいで西軍敗けたんじゃね?
ってことで冷遇して、岩国は江戸時代が終わるまで毛利家から藩として認められなかったんですね。

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そういえば、毛利家には三本の矢の話がありませんでしたっけ。関ヶ原で次男の息子は東軍と内応するし、三男の養子である小早川秀秋なんかは、かの「風見鶏」として有名になるし、結局バラバラになったの?

三本の矢の逸話は、関ヶ原の約30年前、死の間際だった元就が、三人の息子を呼んで語ったといわれています。

その時に枕元にいたのは元就の息子の吉川元春で、その息子の広家は関ヶ原で東軍に内応したけれども、「西軍全部やっつけちゃって」ではなく、「たとえ西軍が敗けても、どうか領地は取らず、毛利家を潰さないで」と交渉をしていたらしいです。

小さくはなったけれども、そのおかげで毛利家は領地とともに存続した、という解釈もあります。

サンフレッチェがこういう帰結になろうとは、元就も考えていたのかどうか。

そういった、ちょっと特殊なポジションのお城だよ、と示す意味で、錦帯橋ユニークなイメージを人々に与え続けたのではないでしょうか。

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コロッケ食べる。蓮根入りで歯ごたえが良くヘルシーな感じです。
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お城は切り立った丘の上にあり、その下の平地部分は今では平和を絵に描いたような緑の公園になっています。
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どうでもいいけど、吉川元春って名前は往年のロックスターを混ぜたようでカッコいいですね。