岩槻に点在するノスタルジーを拾う
岩槻市って、もう無いのですね。
訪ねる前日まで知りませんでした。
そんな岩槻に、かつてお城がありました。
岩槻城は15世紀の半ばぐらいにできたと推測されています。
築城者は太田道灌または成田氏の説が有力です。
史料で裏付けられるのは16世紀になってからで、関東のゴタゴタの中で太田氏が城を取っています。
その後は、
関東に進出した小田原北条氏に太田氏が城を奪われる
→ 家康が江戸に入封
→ 江戸時代は岩槻藩
となっています。
江戸時代を通じて城下町だったのが幸いです。
懐かしいような面影が今も微かに残っていました。
鈴木酒造さんにて
1Fの販売スペースの後ろの階段を登ると、2Fは展示スペースというか屋根裏のような、ちょっとした秘密空間でした。
無料ですが、お店の方に声をかけて入ります。
桶たち~
徳利とか容器~
そしてお酒を製造する道具の数々~
天井が低くて屋根裏感があり、ノスタルジーが押し寄せます。
販売コーナーでお手軽な小瓶「大手門」を買いました。
柔らかで湧き水のような口当たりです。
近くには江戸時代の藩校の建屋も残っています。遷喬館といいます。
靴を脱いで中に入れます。
日本家屋、落ち着きます。
建屋の規模は萩の松下村塾に近く、「よく小さいスペースにたくさん集まって勉強したなあ」という感想を持ちました。
藩校の前の道は、武家屋敷の街並みだったであろうストリートです。
この道の奥に「時の鐘」があります。
時の鐘というと川越が有名ですが、ここも似た文化圏だったのでしょう。
姿もどことなく似ています。
江戸時代には実際に鐘を鳴らして時間を知らせていました。
ねこ
からの、やっと岩槻城跡です。
道中が楽しすぎて、駅からなかなか辿り着きませんでした。
岩槻城、独特です。
各曲輪(広場みたいなとこ)が、島状に独立していた?
荒川のほとりで度重なる蛇行が生んだ沼沢地と微高地なのでしょう。
残念ながら、現在残るのは南東の新曲輪のみです。
本丸やその周辺は今や住宅地になっています。
目の前に見える広場は、往時は沼の底だったっぽい。不思議な感じです。
現代では沼は縮小し、南東隅にあります。
なんか、8回折れ曲がった赤い橋が架かっていて面白い。
で、岩槻城には総構(そうがまえ)またの名を大構(おおがまえ)があったそうです。
総構とは、お城本体の周りにある武家屋敷や一部町人街まで大きく囲んだ防御施設で、土塁またはお堀あるいはその両方があります。
総構といえば小田原城が有名ですが、小田原は一周10km、岩槻城は8kmです。
それらしき場所を昔の地図と重ね合わせながら辿ってみたところ、まっすぐな現代道路に対してゆるく曲がっている所だと分かってきて楽しくなりました。
細長い緑地帯が、見ることのできる遺構の一部なのでしょう。
帯状にちょっと盛り上がっていて、その横はちょっと凹んでいます。
総構の内側に、久伊豆(ひさいず)神社があります。
正月も5日だというのに人通りが絶えませんでした。元日は大いに盛り上がったことでしょう。
ところで久伊豆って「クイズ」と読むと思っていました・・・クイズであってほしかった。すみません。
出雲が大もとだったと伝えられています。
そうそう、岩槻へ行くなら強くお勧めするのが郷土資料館です。
昭和5年の建築で、最初は警察署だったそうです。
小さな建屋で展示もシンプルですが、内装がたまりません。
岩槻城をメインに、発掘された石器から農村の暮らしまでコンパクトに展示されています。入場無料。
郷土資料館の近くに、これまた古めかしい建屋の和菓子屋さんがありまして、買ってみました。
街道沿いの古い建屋で栗羊羹など売っているということは、伝統あるお店に違いありませんが、洋風のテイストに挑戦するのが頼もしいです。
金柑入り城下町パイは、予想より思い切って金柑がまるごと入っており、周囲を餡が埋める形で爽やかに和洋テイストがまとまっていて美味しかったです。
「城の月」はモナカ片側にぎっしりナッツが乗っていて、なるほどコーヒーに合います。
この日に岩槻で訪ねた場所はこれで全てではないのですが、書ききれないのでそろそろまとめます。
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・近代的な街並みの中に、ノスタルジックな建物がコンパクトに点在する。
・大宮・浦和連合軍(さいたま市)に飲み込まれつつある。「市の歴史」になるとさいたま市になってしまう。
・大宮・浦和連合軍に抗う様子は特に見られない。
・なにげに総構を持っていた。
・元々のお城は個性的っぽいけど今では分からない。
とにかく歩くのが楽しくて、あっさり予定時間オーバーしました。
城跡公園と久伊豆神社以外はどこも見学者が私一人だけで、ゆったりしました。観光客よ何処。
大河ドラマを・・・とまで言える知名度ではないと思いますが(失礼)、ポテンシャルはあると思います。岩槻の灯火よ消えないでください。
神奈川台場散歩
2020年の元日は、神奈川台場を歩きました。
これまでも通りがかったときには漫然と解説板を読んでいたのですが、全体像を意識して見たのは初めてでした。
神奈川台場は、JR東神奈川駅からまっすぐ海の方向へ行くとあります、いや、かつてありました。
現代では、素人には全く往時の形など分からなくなっており、僅かに残った石垣を見るのみです。
星野町公園の端っこにて。
星野町公園のすぐ横にちょっとした資料館があるのですが、元日に開いている訳ないですね。
台場を作った勝海舟をフィーチャーしているようです。バーなの?要チェックです。
古い台場の図をグルグル回しながら歩きます。
水路の奥の突き当たりもそうなのかな?
今回初めて意識して水路の奥を望遠で撮ったら石垣が見えて感動したのですが、これが台場の後かは不明です。
台場公園と名のついた小さな公園もあるのですが、もとの台場の一部を細長い三角形で切り取ったような形です。
何故にそこまで地形が変わったのか。
昔を偲ぶというよりは、土地利用の変化のダイナミックさに驚く場所です。
かなり民家が迫った場所にも残った石垣あり。
ねこさん
と、残存する石垣を見てきたのですが、遺構の全体像については下記の記事が参考になります。
ところで、何故ここに台場を作ったのか?
自分でも整理したくて記事を書いております。
1853年 ペリーが浦賀に来るじゃないですか。「開国シテクダサイヨー」
当時の幕府がびっくり仰天して、国民もびっくりして、開国だー、いや攘夷だー、ワーワーなって、
1854年 日米和親条約 「貿易はしないけど燃料の補給などはOKですよ」
1858年 日米修好通商条約 「貿易も・・・します・・・」
1859年 横浜港が開港
1860年 神奈川台場が横浜港の対岸に作られた。
さてここで、横浜とか神奈川の地名が入り乱れております。
私なんかも30年前は横浜ってほとんど東京と一緒でしょ?と言っていたくらいの人間なので、そういう人から見ると神奈川と横浜なんて同じなのですが、拡大してみると違うんですね。
「神奈川」は、現代のJR東神奈川駅近くで、東海道の宿場があった場所です。
船も付けられるしすぐに幹線道路だし宿泊施設もたくさんあるってんで当初は諸外国がここを使いたいと幕府に言っていたのです。
しかし幕府は、そんな危なっかしい所をオープンしたくありません。
まあどちらかというと、刀を振り回す日本人が外国人を殺してしまうことを恐れたようですが・・・
そこで、東海道と宿場から少し離れた「横浜」を外国用の港としてオープンしました。
JR東神奈川駅から桜木町駅まで3.8kmあります。微妙だけど、違うのです。
ちなみにややこしいことに現在の横浜駅は、東神奈川駅と桜木町駅の間にあるんですよね。
いっそう混乱のもとなのですが、これは幕府が外国に対してごまかすために神奈川だの横浜だのとぼかして使っていたことにも一因があるようです。
たとえば今の東神奈川駅は、神奈川県の、横浜市の、神奈川区という入れ子構造になっています。
「ほら、神奈川と横浜は一緒でしょ?」
・・・結局諸外国の方々は新しい港を気に入って、山手の洋館などのカッコいい景色が形成されて行きました。
「江戸時代の横浜は数戸しかない漁村だった」
とよく紹介されますが、それは桜木町~関内付近のことであり、東神奈川付近は江戸時代でも賑わった宿場だったのです。
上の写真は、東神奈川駅の改札近くにある東海道五十三次・神奈川宿の浮世絵です。
ね、宿場がありました。
で、神奈川台場なのですが、宿場街であった神奈川に近接しています。
推測ですが、「横浜」を開港した以上、「神奈川」のほうは絶対に日本の陣地としたかったのではないでしょうか。
やっとちょっと整理がつきました。
そんなこんなで2020年が始まりました。
2019年の終わりに夏の三浦半島記- 久里浜から怒田城を経て横須賀へ
2019年8月に書きかけていたのですが、諸事情により完結していなかった記事を年末に終わらせます。
三浦一族が平安時代に、なぜ半島の内陸部を本拠地にしたのか?
わたくし、現代の道路地図を平面図で見て理由が分かっちゃったんですよ。
道路地図を見て地形を予想するというのは、道路の密度や曲がり具合でだいたい坂が分かるという意味です。
え?そんなの当たり前?
言われてみればそうかも?
まあ人それぞれでしょう。
昔は、三浦半島の先っぽの久里浜から内陸部へ海が入り込んでいました。
その突き当たりの辺り、海の入江とも川ともつかない沼沢地を拓いて住んだのが現在の京急衣笠駅付近になるでしょう。
入植した三浦氏は、この付近にいくつかの城というか砦を作ったようです。
海から見ると衣笠の手前で丘になっていて、比較的大きな船で海へ出やすかったのが怒田(ぬた)城だったと推測されています。
という訳で、怒田城跡へ行ってみました。
住宅地の裏山に、ひそかに上へと続く道あり。
ほら、海のキワでしょ?
三浦一族は平安時代に三浦半島を領地として与えられ、入江が入り込んだ奥に詰めの城を、周囲の稲作と村落地帯にいくつかの支城を、そして海に最も近いこの場所にも一つ城を作ったと推測されています。
かの源平合戦の緒戦で敗れた三浦一族の一派は、近くの久里浜から房総半島へ逃れたとのことです。
この日は夏では珍しく富士山が薄く見えたのですが、写真に残っていませんね・・・消えちゃったのかな・・・てへ
地形の読みに満足し、この日は平作川を少し遡ってイツワ製麺所でセロリつけ麺をいただきました。
暑い日でしたからね。
理想的なセロリの茎が存分に乗っていて、つけ汁は徹底的にあっさりです。
そっと隠れている豚バラのスライスがコクを加えてくれます。
今どき珍しく店内にはクーラーが無いのですが、扇風機の風が当たればしのげます。
他のメニューも食べてみたい。
さて、ここからまた少し平作川をさかのぼり、90度折れて横須賀の街を目指します。
現在いる場所が川べりで半島の真ん中を流れており、そこをそれて港のある横須賀の街を目指すということは、山をひとつ越えることを意味するはずです。
かなり暑い日だったので覚悟して歩き始めたのですが、意外と道は山塊を縫うように避けて、ほんの僅かな勾配で登り続けました。
それでも山を越えて海へ行くはずだから、峠からは海が見下ろせるに違いない。
そんな期待はどんどん先送りになり、峠がないまま横須賀の市街地が始まりました。
そして突然急勾配があり、その目と鼻の先に京急横須賀中央駅が現れました。
写真を撮りようもなく、というか驚いていたのでしょうね。写真がなくてすみません。
横須賀を訪れる方も、なかなか横須賀中央駅の後ろ(山)側から来ることはないと思いますが、この突然さは軽く混乱するほどです。
海は結局、見えなかったよ。
わたくし、この記事の最初のほうで、道路地図から地形が分かるなんてうそぶきましたが、自分が辿っている道のすぐ先の勾配さえ分かりませんでした。
今日び、そこそこ細かい地形が分かる地図だって出ているのですから、無理に道路だけで判断する必要も無かったって話です。
来年は、活用できるものを活用したい。
そんな反省をして、2019年を終わります。
冬の絹の道 八王子から橋本そして柚子
本日の記事は、八王子の片倉城跡公園からスタートです。
城跡の北側の湯殿川から入って行くと、
広場にだいぶ現代的な女性の後ろ姿が。
いやめっちゃ現代やで。
すみません、面白かったので載せました。
ずんずん中へ入って行くと、二の丸跡の広場は広く、枯れ草フサフサ、犬も喜びます。
小さな橋を渡って、隣には本丸跡があります。
二の丸から本丸へ小さな橋を渡ったということは、間に空堀があった訳ですが、建屋は残っていない、どころか誰の城だったのかも定かではありません。
城跡の説明板には大江氏か長井氏かも、とあります。
14世紀末から15世紀にかけてこんな場所にそんな人々がいた(かも)とは初耳でした。まだまだ関東近郊の歴史も知らないことが積もっています。
この城跡は小高い丘になっていて、良い感じのテーブルとイスと、木立の向こうに八王子の住宅地が見える場所もあります。
暖かいお茶を持ってきてくつろぎたい場所でした。
そうそう、同じ丘の上にある住吉神社のマークが毛利もとい大江氏でした。なるほどね?
敷き詰められた銀杏の葉は神々しく光っていました。
からの、住宅地を歩いて
住宅地の端でドーンとまっすぐに長い階段を登り、
この上に「道了堂」があります。
明治の初期に、旅人のや村人の安全を願って作られたお堂だったそうです。
ここから絹の道が明確になります。
落葉ふっかふか。
お堂はもうありませんが、跡地にはこれまた銀杏の葉と陽射しが照らして神さびています。
と、実は一旦記事を書き終えてから調べたところ、この道了堂は心霊スポットの噂があったのですね。
この峠のお堂を一人で守っていたおばあさんが殺害されてしまったのは1963年、けっこう現代のことです。
それで荒廃していた周辺で1973年、さらに不倫・死体遺棄事件が起こりました。
(怪談や噂を扱ったページは数多く見つかりましたが、センセーショナルに扱ったような記事にはリンクしたくないので、Wikipediaでどうぞ)
先入観のない状態で訪ねた感想としては、けっこうきちんと整備されているなあ、見晴らしが良ければもっと良かったな、ぐらいでした。
軽いハイキング風のおばさん2人とすれ違い、笑顔で挨拶しました。Adidas的な靴だったので令和の人たちでしょう。
なんて、絹の道などを尋ねる人が増えて賑わえば、こういった怪談も減るし亡くなった方も浮かばれるのではないかと考えます。
さて、サクサク落葉を踏みながら絹の道を南下すると
次第になんだか江戸時代の山のキワかな?という雰囲気になり、その先に絹の資料館があります。
入場無料の小ぢんまりしつつ、建屋自体に昔の雰囲気が感じられる資料館です。
実際に絹を扱っていた商人の邸宅跡地なのだそうです。
そこから少し南下して、小泉家屋敷で柚子ををゲット。3個で100円。お金は竹筒へ。
小泉家屋敷は養蚕農家の面影を残し、個人宅ですが東京都の有形文化財に指定されています。
あとは途中まで絹の道を辿りつつ、JR橋本駅を目指すのみ。
絹の道の途中でこんな幻想的な光景に出会いました。
絹の道は、日本が開国した頃に絹が外国に売れるというので、群馬方面や八王子から横浜を目指して辿った道なのですね。
開国というと西洋の文化が一気に入ってきて日本の文化的には断層があるイメージですが、絹の道は逆に日本の中身を外へ押し出していたことになります。
日本の歴史でもきっと、戦いによって為政者は変わっても、農民の生活はゆっくり変化したのだと思います。
日本の物を外へ出して行こうという動きのあった絹の道には、まだ微かに江戸から続く雰囲気が感じられました。
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さて晩御飯でさっそく柚子を使いますよ。
刻んで匂いを嗅いだら柑橘世界に旅立ちそうなほど良い香りでした。
醤油ベースの鱈・蕪・白菜の小鍋に投入したところ、ポン酢がほしくなりました。なるほど。
意外だったのが納豆です。
途中で急に思い立って載せたのでご飯にタラコふりかけもかかっちゃっていますが、柚子納豆おいしい。
納豆のぬめぬめに差す光のような爽やかさ、納豆に新しい風が吹きます。
●まとめ
・生の柚子を刻むと香りが凄まじく良い
・鍋に入れるとポン酢を想像してしまう
・柚子納豆、いける
ところで、一味唐辛子と柚子を合わせると、2種類だけなのに七味のように感じられました。
以上です。
そうでした令和ですよ。藤原京より、遥か太宰府へ
奈良時代って、奈良に都があったんでしょ。
そう思っていた頃が私にもありました。
ええまあ、奈良にあったのですが、平城京のみが奈良の都にあらず。それより前には藤原京と飛鳥京があったのですな。
(Map by Googleです)
時代でいうと、飛鳥京 → 藤原京 → 平城京 となり、南から北へ順に移動しています。
補足すると、飛鳥京はぼんやりその地域のことを指し、天皇が変わるごとに少し中心地というか天皇の住居「宮」が移動したそうです。
また、飛鳥京の時代でも少しだけ大阪の難波京に遷都していたこともあります。
細かく見ていくといろいろあります。
古い都を知るにつけ、平城京がモダンな都に感じました。奈良盆地、おそろしい子。
さて飛鳥京は、低い丘に囲まれてのんびりした場所でした。
しかしここで、日本史を習うと序盤で出てくる事件が発生したと言われています。
写真は、飛鳥京の中でも板蓋宮という中心地です。
からの、大化の改新ってやつです。645年。
そうか、ここでもう蘇我氏は滅びて藤原氏の時代になるのですね。
考えてみれば、次の都が"藤原"京です。
やだー、平城京とか奈良の都が蘇我氏で、平安京に遷ってからが藤原氏だと思ってたー
藤原京の次の平城京なんてバリバリ藤原氏の都だったってことですね。今気がつきました。
事の次第としては、乙巳の変で蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子の腹心である中臣鎌足が藤原鎌足となり、ここから多少いろいろあったけど藤原無双の時代へ続きます。
いわゆる遣隋使ってやつで隋帝国の都を見てきた日本人は、これを真似てしっかりした永続的な都を作ろうとして、最初が藤原京なのです。
行ってみたらめっちゃ広くて、何組もの家族が思い思いの場所でサッカーやラグビーを楽しんでいました。
今回の奈良の旅で、マストだったのがこの藤原京です。
なぜなら、万葉集に頻出だからです。
特に大和三山である香久山・耳成山・畝傍山は藤原京を囲むように配置されているではありませんか。
下の3つの山の写真は、どれも藤原京の中から撮ったものです。
↓耳成山
↓畝傍山
↓香久山
春すぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香久山
持統天皇が詠んだ歌です。
この歌がそんなにすごいのかよく分からんが、来たぜ香久山。
ちなみに天武天皇が藤原京を作り始め、次の持統天皇のときに遷ってきました。
その喜びのような気持ちも入っているのでしょうか。
香久山でもう一首
忘れ草我が紐に付く香具山の古りにし里を忘れむがため
大伴旅人の歌です。
役人として大宰府へ赴任し、そのときに詠んだと言われています。
「忘れ草を衣服の紐に付けよう。香久山のあった故郷を忘れるために」
といった意味です。
私は藤原京に立ってスマホで香久山の歌を調べていたのですが、藤原京をあとしにて3時間ほどしてから思い出したのです、
- 大伴旅人って、令和の文章を書いた人じゃん。
大宰府で宴会して、綺麗な月の夜にこんなポエムを詠み合いました、という文章が「令和」のもとです。
すなわち元祖・令和おじさんです。
元祖令和おじさんが遥か大宰府から、いっそ忘れてしまいたいと想ったほどの藤原京に、私は立っていたのです。
令和元年の、大嘗祭の月に。
藤原京に立っているときにそれを思い出したかった。私の遅い脳みそよ。
しかも大嘗祭は天武天皇が始めたと言われていて、さきほど少し登場しましたが藤原京の計画と準備をした人で、それは大伴旅人の幼少期でした。
大嘗祭が始まる前に生まれていた人が「令和」って言って(正確には言ってないけど)、遥か時空を超えて現代の日本人も「令和」と言って、大嘗祭か何か知らんが祝っています。
万葉の旅は令和への旅だったことに、やっと思い至りました。
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さて、今回のグルメは法隆寺の目の前にあった少し昭和チックなレストランで、柿うどんと柿の葉寿司です。
法隆寺は飛鳥京-藤原京-平城京のラインから少し外れますが、行ってみました。
いずれの都も今は野原や田畑なのに、同じ時代にできたはずの法隆寺には現在でも普通に使える建物があって、これまたモダンだと感じてしまいます。もちろん建物は何度も建て替えたのですが。
柿うどん、そこそこ映えるけど、柿の風味は分からず。でもコシがあって美味しかったです。
そしてセットで付けられる柿の葉寿司は、鯖の脂が程よく身がふわっとしてました。
美味しい奈良グルメを食べることができて満足です。