読むめし

口で咀嚼するたけでは足りず、観念でも食べ物を愛でようとする人間

横浜から1歩も出なかった連休の日記

仕事が緊急事態でして、心の余裕が持てない日々が続いております。

 

休みの日は仕事を考えないようにと思っても降りかかる重い話の数々よ。

 

家に閉じこもってそればっかり考えていてはさすがに病んでしまう。

 

怒号の響く会議が終わった金曜日の翌日、

折りよく土曜日は9月14日、TOHO系の映画が安い日でしたので上大岡の映画館へ出かけました。

 

栄華の開始まで40分ほどあったので、一杯引っ掛けてみるかと駅前を歩いたところ、気になるお店が見つかりました。

 

肉バル。うむ。


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ビール390円にトリッパのトマト煮込みが490円。安い。

トリッパ煮込みはトマトが濃くてハーブが効いたうえに、牛肉片も入っていてアツアツが出てきたの。

翌日も同じのを食べたい美味しさでした。

 

映画は『引っ越し大名』観てきたよん。

泰平の世の苦労話で、基本的にずっと平和な感じでしたが、何千人規模で丸ごと引越しって半端ないことだよなと、普通に思いました。

 

さて、映画のあとは何となく伊勢佐木町のほうへ。

大岡川をひたすら辿るのも良いですが、この日は上大岡の駅から海の方へ坂を登り、久良岐公園の縁を経由しゆっくり北上します。

 

こういう場所にも日常生活があるのだよなあと関心しながら。

 

伊勢佐木ストリートでは、ふらりと回転寿司です。


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元祖寿司さん、ネタは小さいけどつぶ貝2カンで130円。甘みと海の風味とコリコリ食感、これもふたたび食べたくなる味です。

 

有隣堂に立ち寄ってからの帰投で伊勢佐木町三昧しました。

 

翌日は金沢文庫の資料館へ。

金沢文庫という一風変わった駅名は、鎌倉時代ここで実際に書籍を集めた人がいたことに由来します。

 

当時はどんな状況だったのか?

金沢文庫資料館すぐ横の称名寺という歴史あるお寺と合わせ、シンプルに資料が展示されています。

 

称名寺の門を出て海岸のほうへ歩いて行くと、海辺の公園で何かフェスが開催されていました。

 

よく分からんが、浜辺でビール飲むチャンスですかこれは。


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チキンティッカというエスニックな鶏串、デカくて400円。


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八景島を見ながらのひとときです。

 

ここから伊勢佐木町方面に移動し、知人と合流して飲むぜ。


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スモークもりもり。

 

お店を移動して地元クラフトビールのお店で馬肉のスモークとクラフトビールをば。f:id:baroclinic:20190929164727j:image

 

解散後、酔っ払った勢いで横浜駅地下、ISETANのフードコートで焼鳥とビールいただいてました。ぼんじりうまい。


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以上、飲んだくれた横浜の週末メモでした。

 

 

矢作川を渡る

かなり遅くなってしまったけれど、8月半ばの散歩の様子をお知らせします。

 

三河一向一揆は1563年、家康公が人質生活から桶狭間の戦いを経て解放され、やっと岡崎城に戻ったのも束の間、21歳の若き当主に降りかかった試練でした。

 

ちなみに家康の父の広忠は24歳で死んでいるし、祖父の清康も家康が生まれるずっと前に20代で死んでいます。

 

というわけで、人質から戻った若様、ごく地元で勃発してさらに家臣の一族も敵味方に別れる混沌の難局に当たることになりました。

 

この日に訪ねた浄珠寺は、この三河一向一揆のときに家康が陣地にしたと言われるお寺です。

岡崎城から南に3kmほどで、矢作川の東側にあります。

 

一方敵方となる三河一向一揆の最大勢力は矢作川西岸、西岡崎の上宮寺にあったと言われています。

 

岡崎城と浄珠寺と上宮寺の位置関係を見たところ、


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あれ?意外と三角形?

岡崎城を守るように家康側の陣地があるかと思ったら、そうでもありませんでした。

 

実際に浄珠寺に行ったところ、地形はほとんど平らで特に砦に適しているわけでもありませんでした。


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お城を守るわけでもなく砦にもならないこの場所がなぜ陣地だったのか。

 

おそらく、このすぐ近くにある「大久保一族発祥の碑」がヒントでしょう。


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三河一向一揆では多くの一族が敵味方に別れる中、大久保一族は全員家康側につきました。

その土地的な信頼感と、あと浄珠寺の宗派が家康側の浄土宗だったのが大きかったのでしょう。。

それと、やっぱり矢作川を挟んで敵方と対岸になることですね。

 

というわけで一揆方の陣地へ行くべく矢作川を渡ります。

 

これが大変でした。

2019年8月14日、大きな台風が列島に近づいてきた日、橋の上で

驟雨

からの強い日差し

いきなり突風

それらのランダムな発生あるいは同時発生

 

で、傘が壊れましたね。

傘のみならず、私の顔面も過酷な各種自然現象に晒されて、劣化を通り越して風化するかと思ったほどでした。

岩石だったらひび割れて砂粒になるプロセスです。

 

「渡橋」という、ツッコミを入れたくなる名前の橋を西岸へ渡ると、橋の少し北に神社、その後に「鳥居一族発祥の碑」があります。


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橋から見て、きっとあの林の所だろうと分かります。


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ほらね。


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神社の後に回ると、赤い鳥居と石碑と墓石がありました。


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鳥居家も松平家に忠実に仕えた一族で、エピソードを読むたびに泣けます。

 

ちなみにここの町名が「渡」というようで、「渡橋」は地名から取った名前のようです。

 

矢作川の渡し場で、そこを守っていたのが鳥居家と神社だったのだろうと想像します。

 

とにもかくにも、川を渡るのは現代の真っ直ぐな橋でさえ大変だったのだから、橋のない時代はよっぽどだっただろうと実感しつつ、さらに西へと田んぼのまっすぐな道を歩きます。

 

上宮寺はJR西岡崎駅の南にあります。


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建物がいわゆるお寺っぽくなくて、モダンでありつつ普通には無いデザインで、独特の空気がありました。

 

しかしこの場所も平地です。

 

そういえば富山・石川を散歩したときも、浄土真宗のお寺は豊かな田んぼの周縁の集落の中にありました。

 

農民の集会所のような役割もあったのかなとそのときは思いましたが、このお寺もそうなのかは分かりません。

 

若き家康が矢作川を挟んで何度か野戦をしたことと家臣団が2つに割れたことが、結果的に後の戦いの原型になったのかなあと考えつつ電車に乗って帰路につきました。

 

ごめん今回食べ物なしです。

 

岡崎の早朝、縁辺のそよ風を

2019年の夏休みは、縁あって愛知・岐阜方面へ1泊の旅をしました。

 

暑い。湿度が高い。そして迫り来る台風の8月14日、岡崎を散歩した様子をお届けします。

 

見て見て、岡崎市内の駅や資料館や、ホテルにまでテーマ別に街歩きやドライブマップが置いてあるの。


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ポケットに入るコンパクトサイズで全12種類ぐらいあり、コースごとに家康公が紹介してくれます。


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ふむふむ、今回は宿泊場所と時間から、岡崎城門前町巡りコースを中心にアレンジしてみましょう。

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早朝6時半に出かけましたよ。暑くなるからね。

 

まず訪ねたのは、若宮八幡宮です。


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なぜ若宮かというと、家康公の長男の首塚があるからです。

デキると評判だった長男・信康ですが、武田方との内通を疑われて織田信長の命令により自刃させられます。

 

諸説ありますが、最も期待をかけていた息子を殺さなければならなくなった家康の心情はもはや察する範疇を超えています。


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このとき、空には大きな虹が・・・って、カメラの露光設定を間違えてほとんど写っていません。なんてこった

 

その次に訪ねたのが八柱神社で、家康公の長男・信康と同じ嫌疑で死ぬこととなった、家康公の妻であり信康の母であった築山殿の首塚があります。


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次に訪ねた大泉寺は、家康の母親の遺髪が入っていると伝えられる墓碑があります。


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母親である於大(おだい)の方は、実家の勢力関係により松平家から離縁されます。

このとき家康公はまだ2歳でした。

 

って、

 

最初の3件だけでも話が重すぎるわ。

 

「人の一生は重荷を背負うて遠き道を行くがごとし」

とはよく言ったものです。

 

ここでポケットガイドの家康公を再び見てみましょう。


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・・・巡るほどに、天下統一までの険しさと泰平の世の素晴らしさを感じる旅になるであろう。

 

・・・

 

その次に歩いていったのは岡崎天満宮は、江戸時代に菅原道真を合祀して天満宮となり、下から見上げる階段と鳥居が清々しい場所でした。


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次の随念寺には家康公の祖父・清康とその妹である久姫のお墓があります。


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家康誕生のずっと前に二十代で殺されてしまった清康と、総崩れとなりかけた松平家を支えた妹の久姫が眠るお寺の白土塀は家康が作ったとされ、その向こうの斜面の墓石と塔も朝日に映える場所でした。

 

その次は諏訪神社です。


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気がつくと高台に立っていて、街が眼下に広がっていました。


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どうも、この日に巡った神社仏閣はすべて、高低差の大きい場所の縁にあったようです。

 

なんとなく境内に入って別の出口から出ようとすると、思いがけない落差で街を見下ろすことがしばしばでした。

 

高温の注意も出ている夏なので、朝の6~7時台に歩いてみたら、ちょっとした高台の風が爽やかでした。

 

徳川さんの故郷だからなのでしょう、庇護が厚くて落ち着いた境内の神社仏閣が多く、市街中心部の縁辺に沿って心地の良い散歩ができました。

まつわる話はたいがいヘビーですけどね!

 

地形からくる心地よさの締めは、甲山です。

ここも市街中心から徒歩で行けるのですが、緑に包まれた丘は地形の妙を感じさせます。


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岡崎城から鬼門の方向ということで神社とお寺の両方がありますが、古くは4~5世紀の古墳があり、場所として神聖視されていたことが伺えます。


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早朝とはいえ汗だくになり、ホテルに帰ってから無理サービスの氷をたっぷりグラスに入れて、ホテル内なのになぜか140円と安い自販機でグレープフルーツ果汁たっぷりの缶チューハイをいただきましたとさ。

休日でよかったですね。平和な時代でよかったですね。

三浦半島記03 - 緑の地底に舞い降りて

京急、なんで三崎口で線路ブツ切れてるん?

いろいろ事情はあるようなので、興味のある方はどうぞ。詳しい記事です。

hamarepo.com

要は予算の問題です。

 

夏の週末、何もない三崎口駅から誰もいない道を海辺へと歩きました。

 

西の相模湾のほうへ。


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畑があって、海風が吹き静かで、まるで沖縄のようでした。

いや実際に沖縄に行ったら「やっぱ違うよな~」とか言いそうだけど、少なくともこのとき私の脳内ではCoccoの歌が流れていました。


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三戸海岸と初声漁港まで来ると、地元っぽい人々がそこそこの密度で楽しんでいました。


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さらに南へ行こうとすると、小網代の森に当たります。

 

ここは三浦半島の中では珍しく、台地のえぐれた部分に湿原があるのです。

 

近づいたら予想以上にえぐれていました。


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この谷です。マジか。

 

階段をいくつも下り、辿り着いたのは緑の地底でした。


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ナウシカっぽい世界でもあります。


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自然保護区域のためか、自販機もありません。入る前にお茶を買っといてよかった。


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この日は4,5組の親子連れとすれ違っただけで、視界はだいたい自分一人になるので緑世界を独占気分です。


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地底の出口は海・・・ファンタジーです。

 

しばらく海沿いを辿れるものの、私には分かっています、三浦半島の旅を続けるには再び崖のような坂を登らなければならないことを。

 

そうして来たのが油壺でございます。


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ここに、三浦一族が滅亡(269年ぶり2度目)した新井城がありました。

上の写真の美しい入江が油壺湾ですが、一族滅亡のときに海が血に染まり油のように見えたことから油壺と呼ばれるようになったとか。そんな名前付けないでくださいよ本当ですか。

 

城跡の前の小道をさらに進んで階段を降りると、油壺のビーチです。


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リア充のような写真を撮りましたが、実際はパラソルの下は席料が発生するのかとか分からず日の照る流木に一人で腰掛けておりました。

 

しかしコロナビールは美味しかった。

汗をかいた身体に染み渡る柑橘、クールダウンさせる苦味、そして再び体力のエンジンに点火するアルコール。

 

なんだかんだで復活したら、目指すは半島の先、三崎城です。

 

三崎城の立地は分かりやすくて、半島の突端かつ船が付けられる入江を見下ろす台地の上ですよね。

 

現在は市庁舎になっていることからも、政庁の中心であったことが伺えます。
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さあ、あとは余力でお土産ショッピングよ。

 

三崎の突端の、うらりマルシェの1階でマグロ串カツを買い、2階のカフェでビールと共にいただきました。


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海を見ながらですよ。たまらん。

マグロ串カツ、しっかりマグロの身そのものなんだけど柔らかくてほどよく甘辛の味が付いていて、当然ビールに合います。

 

2階の野菜コーナーには地元野菜が並んでいて、ここで長~いナスを買ったんですね。

 

2日間に渡る三浦半島の旅、良い締めができました。

 

しかし、歩けば歩くほど知りたい箇所が増えるのでした。

 

三浦半島記02- 衣笠城から和田城へ

一応前回の続きなのですが、気にせずどうぞ:

 

三浦半島で三浦氏が入植当初に本拠地にしたのが衣笠地域と言われており、JRの衣笠駅を降りたらとりあえずは衣笠山に登ってみます。


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ふむ、市街地から海まで見渡せる良い景色、こりゃ戦国時代だったらお城にしたいワン。

 

ところが、衣笠城と伝えられる場所はこの山の陰なのです。

 

案内板によると、2つの小さな流れを天然の堀とした尾根上に位置するというのですが、見通しが全くきかず、じめじめしていて尾根感が全く無い場所でした。


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ちなみにこの衣笠城跡の位置は現代でも確証が無いようで、奥まった尾根の城は敵に追い詰められたときの最後の詰所であり、日常の御殿はもっと平地の方にあったのでは、という推測もあります。


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源平合戦の最中に89歳にしてこの衣笠城の守将として壮絶に闘死し、現代に至るまで人々の崇敬を集める三浦義明のイメージからすると、普段は日当たりの良い場所に住んでいたんじゃないかなあ~。結局イメージですけど。

 

(こんなお散歩お花畑ブログよりも本格的なまとめのページがあったのでリンクさせていただきます)

kamakura8.blogspot.com

なるほど、このブログによると、奈良時代に創建されたと考えられるお寺が大矢部地区にあるということは既に人は住んでいて、中心地と古街道に近く、かつ聖域としてのお寺がある場所ということで衣笠城を詰めの城にしたのですね。

地図と地名の画像などを活用して鎌倉に詳しく、かっこいいブログや。

 

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さて、三浦一族は、鎌倉時代に北条氏に一旦滅ぼされたのだけど、戦国時代初期には後北条氏に滅ぼされるの。

滅ぼされているから資料が少なくてミステリーな部分はあるのだと思います。

 

なんで2回も滅びてるん。

すみません、途中で復活した理由は勉強しときます。

 

さて、衣笠城とその周囲数百m間隔の支城とはまた別に、和田城というのがあります。衣笠から南西方向へ7,8km、相模湾の近くへ行ったほうです。

 

和田城と言われる場所は、三浦義明の孫にあたる和田義盛が住んだ所と伝えられています。

 

衣笠城から和田城までの道は起伏が少なく歩きやすかったです。もちろん現代は立派に舗装された道路な訳ですが。

県道26号線から国道134号線を辿りました。

 

で和田城の石碑と看板がある場所まで着いたのですが、


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なんというか、防御の視点が全く感じられない場所でした。


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和田城というよりは、和田さんが家を建てたところかな?

 

合戦用というよりは、曲者の侵入を防ぐ工夫はあったのかもしれないけど。

 

穀倉と開発の視点からだと、台地の南側の下にある総合体育館のあたりが昔は水田だったような地形くさいです。

 

しかし、和田城から鎌倉に通うのって、結構大変では?

 

舟ルートだと和田さん家から海岸線までビミョーに距離があるうえに丁度いい港が近くに無いし、

相模湾岸ルートだと崖とせり出した丘の塊で障害物が多いし(今でこそ道路がありますけど)、

結局一旦衣笠を経由して横須賀まで出たら金沢(六浦)から朝比奈切通を経由するか、古街道として衣笠→森戸海岸から鎌倉入りするのが妥当なセンだけど、

朝に出発して午後に着く道のりです。

 

案内板によると和田さんが和田に家を建てたのは16歳のときなので、生年から計算すると1163年となります。

三浦氏の三浦半島入植からちょうど100年目、第2の集落として発展しつつあった場所に、三浦氏分家の領民のリーダーとして居を構えることに決めたのではないか。

 

「俺に任せとけ!」

みたいなセリフが似合うキャラです。

 

そして、グレート祖父の三浦義明公が衣笠城で闘死するのが1180年。

この年から源平の人々そして三浦一族の運命が激しく回転し、源頼朝は鎌倉を本拠地と定めます。

 

すなわち、鎌倉が首都になったのは和田さんが和田城付近に家を建てた後なのですね。

 

面白いことに、和田義盛の父親は逆に、鎌倉に家を建てていたんですよね。現在の杉本寺の付近です。

その理由は、頼朝の父親である源義朝が鎌倉を拠点の一つにしたからと考えられます。そこから辿ると、三浦一族は源氏にその頃も従っていたと分かります。

 

父親が亡くなったのをきっかけに、和田義盛青年は三浦半島の和田へと移る。

政治よりも領民の地にいることを優先したのか、あるいは保元・平治の乱で一時的に鎌倉の重要度が下がったからなのか。

 

いずれ領民とともに三浦半島の地で1163年から1180年までを過ごしたであろう和田義盛さんですが、皮肉なことに1213年、鎌倉にて政争に破れ非業の死を遂げます。

その場所が江ノ電で鎌倉の次の和田塚ですね。

 

はい。

 

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この和田さん家(元)の東に、ソレイユの丘というちょっとしたアミューズメントな公園があるので一休みです。


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さすが三浦半島、洋風なスポットになっても馴染みます。

 

チーズ入り三角デニッシュ揚げパンのハムチーズサンドを買ってみたよ。


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真ん中のチーズが濃密で、それをデニッシュでさらに揚げているのでしっかりこってり、ワインに合います。

 

本当はこの後さらに半島を南下したかったのですが、暑さと時間切れで日を改めました・・・翌日に。

一旦帰宅して翌日出撃した様子はたぶん次回お送りします。次回はもうリゾートリゾートします。