読むめし

口で咀嚼するたけでは足りず、観念でも食べ物を愛でようとする人間

三浦半島記03 - 緑の地底に舞い降りて

京急、なんで三崎口で線路ブツ切れてるん?

いろいろ事情はあるようなので、興味のある方はどうぞ。詳しい記事です。

hamarepo.com

要は予算の問題です。

 

夏の週末、何もない三崎口駅から誰もいない道を海辺へと歩きました。

 

西の相模湾のほうへ。


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畑があって、海風が吹き静かで、まるで沖縄のようでした。

いや実際に沖縄に行ったら「やっぱ違うよな~」とか言いそうだけど、少なくともこのとき私の脳内ではCoccoの歌が流れていました。


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三戸海岸と初声漁港まで来ると、地元っぽい人々がそこそこの密度で楽しんでいました。


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さらに南へ行こうとすると、小網代の森に当たります。

 

ここは三浦半島の中では珍しく、台地のえぐれた部分に湿原があるのです。

 

近づいたら予想以上にえぐれていました。


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この谷です。マジか。

 

階段をいくつも下り、辿り着いたのは緑の地底でした。


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ナウシカっぽい世界でもあります。


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自然保護区域のためか、自販機もありません。入る前にお茶を買っといてよかった。


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この日は4,5組の親子連れとすれ違っただけで、視界はだいたい自分一人になるので緑世界を独占気分です。


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地底の出口は海・・・ファンタジーです。

 

しばらく海沿いを辿れるものの、私には分かっています、三浦半島の旅を続けるには再び崖のような坂を登らなければならないことを。

 

そうして来たのが油壺でございます。


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ここに、三浦一族が滅亡(269年ぶり2度目)した新井城がありました。

上の写真の美しい入江が油壺湾ですが、一族滅亡のときに海が血に染まり油のように見えたことから油壺と呼ばれるようになったとか。そんな名前付けないでくださいよ本当ですか。

 

城跡の前の小道をさらに進んで階段を降りると、油壺のビーチです。


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リア充のような写真を撮りましたが、実際はパラソルの下は席料が発生するのかとか分からず日の照る流木に一人で腰掛けておりました。

 

しかしコロナビールは美味しかった。

汗をかいた身体に染み渡る柑橘、クールダウンさせる苦味、そして再び体力のエンジンに点火するアルコール。

 

なんだかんだで復活したら、目指すは半島の先、三崎城です。

 

三崎城の立地は分かりやすくて、半島の突端かつ船が付けられる入江を見下ろす台地の上ですよね。

 

現在は市庁舎になっていることからも、政庁の中心であったことが伺えます。
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さあ、あとは余力でお土産ショッピングよ。

 

三崎の突端の、うらりマルシェの1階でマグロ串カツを買い、2階のカフェでビールと共にいただきました。


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海を見ながらですよ。たまらん。

マグロ串カツ、しっかりマグロの身そのものなんだけど柔らかくてほどよく甘辛の味が付いていて、当然ビールに合います。

 

2階の野菜コーナーには地元野菜が並んでいて、ここで長~いナスを買ったんですね。

 

2日間に渡る三浦半島の旅、良い締めができました。

 

しかし、歩けば歩くほど知りたい箇所が増えるのでした。

 

三浦半島記02- 衣笠城から和田城へ

一応前回の続きなのですが、気にせずどうぞ:

 

三浦半島で三浦氏が入植当初に本拠地にしたのが衣笠地域と言われており、JRの衣笠駅を降りたらとりあえずは衣笠山に登ってみます。


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ふむ、市街地から海まで見渡せる良い景色、こりゃ戦国時代だったらお城にしたいワン。

 

ところが、衣笠城と伝えられる場所はこの山の陰なのです。

 

案内板によると、2つの小さな流れを天然の堀とした尾根上に位置するというのですが、見通しが全くきかず、じめじめしていて尾根感が全く無い場所でした。


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ちなみにこの衣笠城跡の位置は現代でも確証が無いようで、奥まった尾根の城は敵に追い詰められたときの最後の詰所であり、日常の御殿はもっと平地の方にあったのでは、という推測もあります。


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源平合戦の最中に89歳にしてこの衣笠城の守将として壮絶に闘死し、現代に至るまで人々の崇敬を集める三浦義明のイメージからすると、普段は日当たりの良い場所に住んでいたんじゃないかなあ~。結局イメージですけど。

 

(こんなお散歩お花畑ブログよりも本格的なまとめのページがあったのでリンクさせていただきます)

kamakura8.blogspot.com

なるほど、このブログによると、奈良時代に創建されたと考えられるお寺が大矢部地区にあるということは既に人は住んでいて、中心地と古街道に近く、かつ聖域としてのお寺がある場所ということで衣笠城を詰めの城にしたのですね。

地図と地名の画像などを活用して鎌倉に詳しく、かっこいいブログや。

 

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さて、三浦一族は、鎌倉時代に北条氏に一旦滅ぼされたのだけど、戦国時代初期には後北条氏に滅ぼされるの。

滅ぼされているから資料が少なくてミステリーな部分はあるのだと思います。

 

なんで2回も滅びてるん。

すみません、途中で復活した理由は勉強しときます。

 

さて、衣笠城とその周囲数百m間隔の支城とはまた別に、和田城というのがあります。衣笠から南西方向へ7,8km、相模湾の近くへ行ったほうです。

 

和田城と言われる場所は、三浦義明の孫にあたる和田義盛が住んだ所と伝えられています。

 

衣笠城から和田城までの道は起伏が少なく歩きやすかったです。もちろん現代は立派に舗装された道路な訳ですが。

県道26号線から国道134号線を辿りました。

 

で和田城の石碑と看板がある場所まで着いたのですが、


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なんというか、防御の視点が全く感じられない場所でした。


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和田城というよりは、和田さんが家を建てたところかな?

 

合戦用というよりは、曲者の侵入を防ぐ工夫はあったのかもしれないけど。

 

穀倉と開発の視点からだと、台地の南側の下にある総合体育館のあたりが昔は水田だったような地形くさいです。

 

しかし、和田城から鎌倉に通うのって、結構大変では?

 

舟ルートだと和田さん家から海岸線までビミョーに距離があるうえに丁度いい港が近くに無いし、

相模湾岸ルートだと崖とせり出した丘の塊で障害物が多いし(今でこそ道路がありますけど)、

結局一旦衣笠を経由して横須賀まで出たら金沢(六浦)から朝比奈切通を経由するか、古街道として衣笠→森戸海岸から鎌倉入りするのが妥当なセンだけど、

朝に出発して午後に着く道のりです。

 

案内板によると和田さんが和田に家を建てたのは16歳のときなので、生年から計算すると1163年となります。

三浦氏の三浦半島入植からちょうど100年目、第2の集落として発展しつつあった場所に、三浦氏分家の領民のリーダーとして居を構えることに決めたのではないか。

 

「俺に任せとけ!」

みたいなセリフが似合うキャラです。

 

そして、グレート祖父の三浦義明公が衣笠城で闘死するのが1180年。

この年から源平の人々そして三浦一族の運命が激しく回転し、源頼朝は鎌倉を本拠地と定めます。

 

すなわち、鎌倉が首都になったのは和田さんが和田城付近に家を建てた後なのですね。

 

面白いことに、和田義盛の父親は逆に、鎌倉に家を建てていたんですよね。現在の杉本寺の付近です。

その理由は、頼朝の父親である源義朝が鎌倉を拠点の一つにしたからと考えられます。そこから辿ると、三浦一族は源氏にその頃も従っていたと分かります。

 

父親が亡くなったのをきっかけに、和田義盛青年は三浦半島の和田へと移る。

政治よりも領民の地にいることを優先したのか、あるいは保元・平治の乱で一時的に鎌倉の重要度が下がったからなのか。

 

いずれ領民とともに三浦半島の地で1163年から1180年までを過ごしたであろう和田義盛さんですが、皮肉なことに1213年、鎌倉にて政争に破れ非業の死を遂げます。

その場所が江ノ電で鎌倉の次の和田塚ですね。

 

はい。

 

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この和田さん家(元)の東に、ソレイユの丘というちょっとしたアミューズメントな公園があるので一休みです。


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さすが三浦半島、洋風なスポットになっても馴染みます。

 

チーズ入り三角デニッシュ揚げパンのハムチーズサンドを買ってみたよ。


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真ん中のチーズが濃密で、それをデニッシュでさらに揚げているのでしっかりこってり、ワインに合います。

 

本当はこの後さらに半島を南下したかったのですが、暑さと時間切れで日を改めました・・・翌日に。

一旦帰宅して翌日出撃した様子はたぶん次回お送りします。次回はもうリゾートリゾートします。

 

三浦半島記01- 長なす美味しい。そして衣笠という意外な市街地

この長~いナス、三浦半島産なんですけど、フライパンでベーコンと共に焼いたらフワッと柔らかくて甘いのよ。


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油も引かず、塩だけ軽くかけたけど、ベーコンの塩気で十分だったかもしれません。


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めちゃ長いので、明日も明後日も食べられそうです。

 

・・・そんな野菜のある三浦半島は昔から畑作が盛んな地域でしたが、裏を返せばお米を作るのが難しかったんだろうなと、今回散歩して感じました。



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海から急に盛り上がった台地の上が平らな畑で海風に吹き晒されているなんて、東北の内陸に生まれ育った人間としては理解し難い風景でした。

 

風は畑の上で空を切るだけ。

 

3年ほど前に散歩したときに渇きを感じたのですが、そのときは理由を深く考えませんでした。

 

平らな台地に降った雨は、すぐ海へ流れてしまうのでしょう。

 

さて、JR横須賀線衣笠駅の近くにある衣笠城が、平安から鎌倉時代初期に三浦氏が滅亡するまでの本拠地だったと言われています。

 

商店街のエリアが大きくて、けっこう長いアーケードまであったのは意外でした。


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しかし、なぜ海に面していない、むしろ半島の真ん中と言っても差し支えない衣笠を本拠地にしたのか?

 

1つ考えられるのは、国防というよりは田畑の開発拠点だったのでは、ということです。

 

田んぼが作りにくい土地なので、縄文時代には海沿いに魚介を獲って暮らす人々がいても、弥生時代以降は内陸にあまり人がいなかった可能性があります。

 

そこへ平安時代に入植した三浦さん(あえて入植と言ってみる)、領地とするからには開墾しないとね。

 ・・・という流れを想像しました。

 

面白いことに、平安時代の拠点は内陸だった一方、戦国時代の幕開けに北条早雲に滅ぼされた時の三浦氏の拠点は三浦半島の突端で海沿いだったんですよね。

 

平安時代の三浦氏が衣笠に本拠を置いたのは、軍事目的ではなく開発だったのでは、という視点からみると、平作川が目に入ります。

 

GoogleMAPから、川の両岸に貝塚が確認できました。つまり、縄文時代はその川は海だった訳です。

時代を経るにつれて土砂が堆積したり川が蛇行して沼沢地のようになったことでしょう。

 

そのようなポテンシャルのある川の流域、丘陵から平地に川が出るあたりに多少の住人がいて、そこから新田開発をしたのではないか。

 

そして衣笠は半島の真ん中付近であるために、東京湾相模湾までの距離が同じで、さらに第3の方向として川があり、船で海へ出られたのではないか。

 

などと地図で想像してから実際に衣笠城跡へ行ってみたら、頭をかかえました。

 

衣笠城は、衣笠山にある訳ではなかった・・・

 

三浦半島の真ん中に堂々とそびえ立つ衣笠山ではなく、隣の尾根の奥まったところにありました。

 

なんでやねん、なんでやねん、

なんだか珍しく考察みたいになってしまったブログ記事ですが、長くなったので次回に続きます。

 

石橋山古戦場そして石垣山一夜城へ 小田原付近の旅

いちおう道順としては前回からの続きですが、あまり気にしないでください。

 

baroclinic.hatenablog.com

根府川駅から余裕をこいたために回り道して体力を消耗し、やっと来た良い景色の中で喉が乾きつつ、石橋山古戦場まで来ました。

根府川駅から素直に来れば5km程度でした。


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写真が朦朧としていてすみません。

けっこうヤバかった。


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階段を登り切ると佐奈田霊社という神社があります。


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ここでやっと説明すると、石橋山の戦いとは1180年の源平合戦の緒戦で、伊豆の里で流罪になっていた源頼朝が挙兵し近場の平氏をボコった後、伊豆半島を脱出しようとしたときに平家方の追手に逆にボコボコにされた戦いです。


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頼朝の味方だった佐奈田余一は、ここで壮烈な戦死を遂げ、のちに祀られました。

 

その古戦場がどういうところか訪ねてみた次第です。

 

根府川駅からしてそうだったのですが、山肌からストンと海に落ちる急斜面で、当時約300騎といわれた頼朝勢が全部集まれそうな空間など見当たりません。

 

布陣とか作戦とかいうよりも、敵味方が「通せ」「ここは通さぬ」で衝突したのがたまたまここだったのだと思いました。

 

味方が潰滅する中、なんとか頼朝が脱出できたのは幸運といえば幸運・・・要素を求めるとしたら、この急峻で複雑な地形が幸いしたのでしょう。

そして、当時この近くの湯河原~真鶴を領有していた土肥実平が、地形を把握していて僅かな味方を導けた可能性なども想像します。

(※後日注:この散歩の後、小田原駅の書店でゲットした本に、やはり土肥実平がキーだったという推論がありました。ですよねイエーイ)

 

相模のもののふたち―中世史を歩く (有隣新書10)

相模のもののふたち―中世史を歩く (有隣新書10)

 

 

この地形、箱根の外輪山の一部なんですって。火山が海から直接盛り上がったら、そりゃ急斜面にもなりますわな。

 

などと考えつつ、いよいよ近づく小田原の街を見ながら、次に目指すは石垣山一夜城というかその隣にあるパティスリーです。


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海の向こうに小田原城が見えるよ。イエーイ


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しかしまたここからが長かった。

相変わらず自販機は無いのです。

 

以前に一夜城を訪ねた記憶からすると、たしか山頂に近かった。ということは、ここからずっと登り坂であろう。

 

数メートル先の路上に突っ伏す自分の姿が何度も見えました。

 

疲れたときの道の先、道を曲がった向こうも容赦なくまた登り坂がありますよね。


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時折見える小田原の海だけが救いです。

 

桃ジュース、レモンジュース、マンゴーソーダ、思い浮かべながら時には道端の縁石に座り込み、プルプルしながら汗だくでやっと辿り着きました。

 

そこで

「今日ダイビングしてきたんですか?」

と地元っぽい年配夫婦に聞かれたことは、しばらく記憶に残ることでしょう。

 


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石橋山の戦いが1180年、そしてこの石垣山一夜城(パティスリーではない)が築かれて豊臣秀吉が小田原を攻略したのが1590年。

 

歴史に思いを馳せるとき、山を登りながら約400年の時を下ったことになります。ま飲み物のことしか考えていなかったけど。

 

石橋山の戦いで頼朝とともに戦った北条氏は後に鎌倉で政権を取りましたが、鎌倉幕府の滅亡と共に散り散りとなりました。

その約300年後、伊豆を経て小田原に城を構えたのが後北条氏となります。

その約100年後に小田原が陥落します。

 

そういえば、石橋山の戦いの頃の小田原はどういう状態だったんだろう。

文献は少ないようです。

石橋山の戦いの後、すぐ横の小田原をガゼン無視して房総半島へ渡った時代と、天然の要害として後北条氏のときに一気に重要拠点となった時代では、何らか流れの違いがあるのかもしれません。

 

という訳で、一夜城ヨロイヅカファームでスイーツ購入しました。


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あと野菜カレーパンがすばらしくて、前回も買いましたが今回も買いました。


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ビーフとスパイスの香り引き立つ濃厚たっぷりルウの上に、食感のしっかりした地元野菜を敷き詰めたパンは、カレーの箱庭や!

 

もうほんとすみません、内容があちこちで支離滅裂になったので、箇条書きにしてまとめます。

 

根府川駅から石橋山古戦場へ、山肌をくねくねと行く道の景色が良い。

・ただし自販機は無い。

・石橋山古戦場は複雑な急斜面が海に落ちる場所である。そこは箱根の外輪山の一部である。

・ただし自販機は無い。

石垣山一夜城のバス停近くにやっと自販機が一つある。

石垣山一夜城の隣にある一夜城ヨロイヅカファームは、スイーツも美味しいが野菜カレーパンがおすすめである。

 

以上、よろしくお願いいたします。

根府川から石橋山古戦場への散歩

東海道線で東京や横浜から熱海方面へ行ったことのある人なら、根府川という駅を見たはずです。

 

そうです、なんというか、「ここで降りる人いるの?」という雰囲気の、ホームのフェンスの向こうに断崖そして海があるだけの駅です。


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降りてみました。

駅の山側から見た海はこちらになります。


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上の写真の右上にちょこんと出ているのが真鶴半島です。その先の三ツ石(半島の先の小さな黒い点々)まで肉眼で確認できます。


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駅を山側に降りた途端に(山側にしか降りられません)ズイズイと斜面を登ることになります。

斜面の家と海、いきなり大好物の景色が現れます。


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尚、2019年7月20日、長い梅雨の天候により全てアンニュイな写真になっておりますのでご了承ください。

 

根府川の駅を降りた正面にウォーキングガイドの看板があり、それに従って一旦山側へ行くヒルトンコースを選んでしまったのは、個人的には失敗でした。

私有地ということもあってかGoogleマップと道が合わず、駅前の案内板の道とも整合できず、海は見えず、高そうな建物と高そうな車がたくさん停まっている駐車場を見ました。こんな場所にそんなリゾートがあるのは意外でしたが。


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敷地を何とか抜け出したら行き止まりの道にも複数出くわして、長雨で滑りやすいコケの斜面で転倒し、藪蚊をくぐり蛇を見ながら半泣きで歩くことになりました。


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おすすめは、線路より内陸側で海岸線に沿ってくねくね行くほうです。

 

ヒルトンコースを脱出してから結局歩いて根府川駅までその道を辿って戻りましたよ。


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私が求めていたのは、このような景色です。

斜面、家、その向こうに急に海。


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私が求めていたのは、このような景色です。

海の向こうに小田原の街が見えます。



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こういうね


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こういう

 

と、歩いているうちに普通に疲れてきました。

 

海のキワキワには線路も交通量の多い道路もあるものの、マイナーな細い山沿い道には全く自販機がありませんでした。

 

このあと、かなりヨレながら石橋山古戦場を目指します。

 

長くなったので別記事とさせていただきます。

 

本日のグルメ紹介は、片浦レモンサイダー・・・散歩の後、小田原で購入したものです。

これがこのときに飲めたなら、散歩は天国だったことでしょう。


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昔ながらの王冠付きガラス瓶(栓抜きが必要なやつ)で、果汁と砂糖と香料といったシンプルな原材料。ラベルのレトロな色合いといい自分の立ち位置をよく把握しています。

 

果汁5%、酸味控えめながらレモンの風味はたっぷりで、甘みのある落ち着いた味でした。

散歩の途中で飲めたら最高だったなあ。