読むめし

口で咀嚼するたけでは足りず、観念でも食べ物を愛でようとする人間

日曜午後3時の横浜中華街

横浜中華街、9月と10月の3連休は混んでいたことと思いますが、それが終わった普通の週末も結局ぼちぼち混んでいました。


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特にメインストリートである中華街大通りは相変わらずの人混みです。

 

本日は、メインストリートから直角に入った市場通りにある永遠福楼さんでいただきました。


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エビチリ、チャーハン、カニとフカヒレのスープ、小籠包、ミニサラダ、ザーサイにあと杏仁豆腐が付いて900円です。

 

定食というよりコースとさえ言える内容で流石のコスパなので、別途ビールを頼んで一人宴会ができます。

 

小籠包やチャーハンは普通ですが、エビチリのエビが真面目に粒ぞろいで数も多かったので、エビチリまっしぐらで中華街を訪ねた身には十分すぎる水準でした。

 

ちなみにこちら、ランチではありません。

開店から閉店まで通年でいただけるレギュラーなセットです。

平日のランチはもっと安くてシンプルです。

 

最初、店内は私一人だけでしたが後から2組入ってきました。

そんな緩い時の流れが午後3時です。

 

そういえば、いつも気になっているお店はこの時間どうなんだろうと、永福楼を出て歩いて行くと、

 

いつも満員で入れない、上海焼そばで有名な萬来亭さんが今なら入れる。f:id:baroclinic:20181014223856j:image

 

エスニックな餃子で有名な山東さん、最近満席続きだったけど、今なら行ける。

ってお姉さま方もおっしゃっていました。

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これまで行列が絶えたのを見たことがない謝甜記さん、今ならあと3人だ。f:id:baroclinic:20181014223917j:image

 

ということで、普段混んでいるお店には、午後3時台に攻め込めば良いことが分かりました。

 

それでは、この記事冒頭の人混みは何だったのか?

 

どうやら、店内ではなく店頭で饅頭や小籠包を買って食べている人が多いようです。

中華街は目的地ではなく、横浜見学のついでのようなノリかもしれません。

 

最近、店頭購入型の新しいお店が増えているようで、そのような中華街ライトユーザーの需要を見越しているのかもしれません。

 

さてこちらは、胃袋の中身を消化しがてら夕方の山下公園を歩きます。


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大きな客船が大さん橋を出るところで、汽笛が低く響きました。

 

世界中を巡る人々が、この公園や中華街も珍しい目で見て行ったのかと想像すると、心の底を冒険の風が吹き抜けるようでした。

 

鎌倉で鎌倉末期と南北朝~観応の擾乱の史跡を訪ねる 4 (完)

2018年10月6日の鎌倉散歩、第4回にして結びとなります。

急に4回シリーズになってどうもすみません。

前回の記事はこちら↓

baroclinic.hatenablog.com

 

今回もこの時代の概要みたいなのを載せておきます。

 

  1. 鎌倉幕府末期: 後醍醐天皇足利尊氏などが、鎌倉幕府を倒す。
  2. 建武の新政: 後醍醐天皇が京都で新しい政治体制を敷く。
  3. 南北朝: 後醍醐天皇と足利氏が対立する。
  4. 観応の擾乱: 南北朝の対立のうえに、北朝内部で足利尊氏と弟の足利直義が対立する。
  5. 南北朝の収束: 足利尊氏も直義も死去し、足利尊氏の孫である足利義満南朝を吸収して南北朝を収束させる。 

 

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3 南北朝

後醍醐天皇足利尊氏がバリバリに対立し、南朝北朝に分かれたのが1336年です。

こうして見るとこの時代、毎年のように何かが起きていますね。

 

しかし南北朝の時代は京都と奈良がホットです。

鎌倉はというと、足利氏が南朝の勢力を牽制するために、関東管領として有力な人材を配置する動きがありました。

 

その最たるのもが上杉家で、複数の上杉家に分かれ、鎌倉に住んだり関東に勢力を伸ばした結果、戦国時代の一大勢力になるのですね。

 

4 足利直義墓所観応の擾乱

南北朝でなかなか混乱が収まらないうえに、今度は足利尊氏(with 執事の高師直)と弟の直義が対立してしまいます。

これがまた全国の勢力を巻き込んで戦闘が起こり、途中で高師直が殺害されますが、帰結として直義が敗北し鎌倉へ護送→死亡となります(1352年)。


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写真は鎌倉の浄妙寺境内にある足利直義墓所です。

 

浄妙寺に幽閉された直義は、ほどなくして病死と公式的には伝えられますが、毒殺だったのではないかというのが当時からの大方の見方でした。

この部分は何だか心臓をつままれるような気持ちになります。

 

5 南北朝の収束

 

もう、北朝南朝もずっと戦い続けて疲れちゃったね。

 

1392年、足利尊氏の孫である足利義満がやっと、南朝を統合する形で南北朝の統一を果たします。

政治も文化も中心は京都となり、鎌倉は足利氏と上杉氏が治める土地になります。

 

かの江戸城を築いた太田道灌は、扇ガ谷の上杉氏に仕えた人でした。

鎌倉駅北鎌倉駅の間にある英勝寺は、太田道灌の邸宅跡に作られたと言われています。


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2018年10月6日の散歩では遅めのランチを、扇ガ谷の住所まであと数mの、鎌倉駅裏にあるソンベカフェでいただきました。


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もっちりパッタイに野菜たっぷり、唐辛子と酢と砂糖がかけ放題ですよ。

鎌倉での食事は千円以上を想定していたのですが、オープンカフェでアジアンな食事を850円でできてよかったです。


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さて今回のお散歩は、歩いた順番と関係なく時代順に書いてみました。

 

話は極力シンプルにしようとしたのですが、書いているうちに長くなり記事が4つになってしまいました。

 

吉川英治の小説『私本太平記』には、赤橋守時&登子、上杉憲房などの鎌倉方や、楠木正成名和長年北畠顕家など多彩なキャラクターが登場するので、まだ書いていないことはモリモリとあります。

 

ちなみになんと、吉川英治の『私本太平記』は、青空文庫で無料で読めてしまいます。

 

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昔この辺りを行き来していた人々はいかめしい面々だったのだろうと想像しつつ、うららかな秋の日にアジアンなカフェから横須賀線を眺めるのは、なかなか不思議なひとときでした。

 

 

鎌倉で鎌倉末期と南北朝~観応の擾乱の史跡を訪ねる 3

2018年10月6日の鎌倉散歩、前回で鎌倉幕府が滅び、今回はその後です。

 

baroclinic.hatenablog.com

今回もこの時代の概要みたいなのを載せておきます↓

 

  1. 鎌倉幕府末期: 後醍醐天皇足利尊氏などが、鎌倉幕府を倒す。
  2. 建武の新政: 後醍醐天皇が京都で新しい政治体制を敷く。
  3. 南北朝: 後醍醐天皇と足利氏が対立する。
  4. 観応の擾乱: 南北朝の対立のうえに、北朝内部で足利尊氏と弟の足利直義が対立する。
  5. 南北朝の収束: 足利尊氏も直義も死去し、足利尊氏の孫である足利義満南朝を吸収して南北朝を収束させる。 

 

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2-1 宝戒寺

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鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇建武の新政を始めます(1334年)。

宝戒寺は、北条氏を弔うために後醍醐天皇足利尊氏が建てたお寺ということで、短かったけれども彼らの蜜月を思わせる成り立ちです。

 

この日に訪ねた際はご法事で入れなかったので、2017 年9月に撮った写真を載せておきます。


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鶴岡八幡宮にほど近く、名前も由来も独特なうえにワッサーっと秋に萩が咲くので、史跡かつ花スポットとして自分の中ではソリッドです。


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2-2 護良親王墓所

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鎌倉幕府滅亡(1333年)→建武の新政(1334年)は、束の間の平和というか、実態は平和ですらなく地殻変動は続いていました。

 

後醍醐天皇の実子である護良(もりなが or もりよし)親王は、建武の新政征夷大将軍となります。

 

倒幕の頃からアクティブに活躍した武闘派の親王だったのです。

 

しかし、足利尊氏と反目したり、他の親王の母親の策動があったりして、京都で捉えられて鎌倉へ送られ、殺害されてしまいます(1334年)。

 

親王かつ征夷大将軍が殺害されるって、えらいことですよね。

この時代がいかに混沌としていたかを示す大事件です。


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墓所は、真っ直ぐな階段を百段以上登った(たぶん)所にあり、登り切ったと思ったら門の向こうにまだ階段があるという、いかつい構造になっています。

 

3 南北朝

後醍醐天皇足利尊氏がバリバリに対立し、南朝北朝に分かれたのが1336年です。

こうして見るとこの時代、毎年のように何かが起きていますね。

 

しかし南北朝の時代は京都と奈良がホットです。

鎌倉はというと、足利氏が南朝の勢力を牽制するために、関東管領として有力な人材を配置する動きがありました。

 

その最たるのもが上杉家で、複数の上杉家に分かれ、鎌倉に住んだり関東に勢力を伸ばした結果、戦国時代の一大勢力になるのですね。

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きっと次回で完結します。

 

時勢は鎌倉から次第に遠ざかって行きます。

その最後の事件が起こります。

 

(写真と内容はあまり関係ありません)
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鎌倉で鎌倉末期と南北朝~観応の擾乱の史跡を訪ねる 2

2018年10月6日の鎌倉探訪、前回の記事で日野俊基卿の墓所まで行きましたが、今回はその続きです。

baroclinic.hatenablog.com

今回は鎌倉幕府が滅びます。

 

おさらいとして、大まかな流れを載せておきます。

 

  1. 鎌倉幕府末期: 後醍醐天皇足利尊氏などが、鎌倉幕府を倒す。
  2. 建武の新政: 後醍醐天皇が京都で新しい政治体制を敷く。
  3. 南北朝: 後醍醐天皇と足利氏が対立する。
  4. 観応の擾乱: 南北朝の対立のうえに、北朝内部で足利尊氏と弟の足利直義が対立する。
  5. 南北朝の収束: 足利尊氏も直義も死去し、足利尊氏の孫である足利義満南朝を吸収して南北朝を収束させる。

 

 

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1-4 稲村ヶ崎

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日本史のハイライトに入るであろう、ビビッドでダイナミックな出来事がここで起こりました。

 

足利尊氏と同時並行的に幕府へ反旗を翻した新田義貞は、難攻不落と言われた鎌倉の地へ、この断崖の直下の海を経由して侵入します。

 

太平記では、新田義貞がここで戦勝祈願のために太刀を海に投げ入れたところ、潮が引いたのでその隙に海を渡ったと記述しています。

 

現代人から見たら眉唾なのですが、しかしとにかく新田義貞はこの場所から鎌倉に攻め行ったことは事実のようです。


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こちら、稲村ヶ崎を西側すなわち鎌倉側から撮った写真です。

 

何度もこの場所の近くを通ったとこがありますが、ただの岩塊という認識でした。

こうして改めて歴史を踏まえて見ると、

「こんな場所を渡ってきたのかよ!」

という驚きを禁じえません。


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稲村ヶ崎の岩塊のてっぺんがちょっとした広場になっており、そこから東に江ノ島が見えます。

 

稲村ヶ崎の駅にて、いとけなき稚児、母君に

「いまなんじ?」

と問ひけるに、我

「そーね、だいたいねー」

と独りごちたり。

 

1-5 東勝寺と腹切やぐら


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稲村ヶ崎を越えて鎌倉へ侵入した新田義貞に追い詰められた北条高時は、鎌倉の東勝寺で自害し、ここで鎌倉幕府は滅亡しました(1333年)。

 

現在は建物は無く、フェンスで囲まれた草原になっています。

北条高時は一族郎党とともに東勝寺を焼いて自害したと言われ、鎌倉幕府滅亡時にできたらしき数十cmの炭の層がここにあるとか、なかなかリアルな怖さがあります。


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東勝寺の裏の斜面には腹切やぐらがあり、怖い話もあるようですが、私はあえて読んでおりません。

 

 

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怖いところで終わってしまったので、ここで鎌倉のスイーツをば。

 

若宮大路の並びで見つけたお菓子とジャムのお店Romi-Unie Confitureで「カトルカール」というケーキを買ってみました。


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フランス語でパウンドケーキの意味だそうですが、実感としてはシフォンケーキとパウンドケーキの間くらいの固さで、カステラよりもドライできめ細やかです。

バターと卵の風味たっぷりで、ファンタジー世界のお菓子のよう。おいしいです。

 

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鎌倉幕府が滅んでしまいましたが、次回へ続きます。

 

鎌倉で鎌倉末期と南北朝~観応の擾乱の史跡を訪ねる 1

秋です。読書です。散歩です。

最近、吉川英治の『私本太平記』を読み終わりまして、その視点で鎌倉を歩こうと思いました。

 

そもそもの太平記とは、一言でいうと南北朝のてんやわんやを記した書物で、吉川英治の『私本太平記』は、その中で足利尊氏を主役にした歴史小説です。

 

鎌倉幕府とか南北朝とか、例によって私は全く整理できていなかったのですが、小説を読んで、大雑把に次のような区分ができると思いました。

 

  1. 鎌倉幕府末期: 後醍醐天皇足利尊氏などが、鎌倉幕府を倒す。
  2. 建武の新政: 後醍醐天皇が京都で新しい政治体制を敷く。
  3. 南北朝: 後醍醐天皇と足利氏が対立する。
  4. 観応の擾乱: 南北朝の対立のうえに、北朝内部で足利尊氏と弟の足利直義が対立する。
  5. 南北朝の収束: 足利尊氏も直義も死去し、足利尊氏の孫である足利義満南朝を吸収して南北朝を収束させる。

 

という感じで理解しました。

 

2018年10月6日、いざ鎌倉へGo.

 

1-1. 鶴岡八幡宮

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いつも混んでいるしベタなのであまり行ったことがありませんでしたが、改めて見ると壮観ですね。

鎌倉幕府のシンボルだけあります。

 

1-2 若宮大路幕府跡
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こちら、うららかな普通の住宅街に石碑が立っているのですが、鎌倉幕府が滅亡するまでの約100年間、将軍御所があった場所です。

若宮大路を東にそれて、細い道をアミアミ行った中にあります。

 

1-3 日野俊基の墓
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葛原ヶ丘にある日野俊基卿の墓所

日野俊基は、鎌倉幕府がまだ幕府の体裁を保っているときに、先駆的に倒幕を企てた公卿です。

企ては発覚してしまい、捉えられてこの地で処刑されました。

 

この場所、日差しがある時ならいつ来てもカッコいい写真が撮れます。

 

日野俊基卿の辞世の句は

「秋をまたで葛原岡に消ゆる身の露のうらみや世に残るらん」

・・・なんか、死の直前まで上手いこと言って、相当クールな公家だったと思われます。

 

こうしていよいよ動乱の時代へと、歴史は動いて行きます。

 

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ところで、足利尊氏はもともと鎌倉幕府御家人だったので、日野俊基卿が処刑された時点(1332年)では、まだ鎌倉幕府方のような顔をしています。

 

その翌年、鎌倉幕府の命令で後醍醐天皇の勢力を鎮圧に向かったと見せかけて、突如幕府への反乱を宣言します。

 

その場所は丹波国、今の兵庫県だったので、鎌倉からは離れていますね。

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1333年は足利尊氏の幕府離反をはじめ、それまでの不満勢力が一気に表面化し、奔流のように時勢を捲り上げます。

 

それは次回にて、お楽しみに!・・・文章が長くなってしまったので続きます。

 


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