読むめし

口で咀嚼するたけでは足りず、観念でも食べ物を愛でようとする人間

でかいよ高野山

この記事は、日程的には前回の続きですが、特に前回を読まなくても構わないように書きます。

和歌山県九度山に前泊して、高野山へ向かいました。

九度山になんとなく泊まって、「なんか近くにあるから」という発想で向かったのは申し訳なかったです。

1日かけても回れないお寺なんて想像つかないものでした。

高野山って、写真や地図を見ると建物がたくさんあるから、山の上とは言えアクセス容易だと思うじゃないですか。

ところが、道幅が狭くて車のすれ違いが難しい箇所もけっこうある、曲がりくねった山道を登る系でした。

山の上に突如、巨大なお寺っぽい建造物の数々と観光客の世界が現れる新しいパターンでした。
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上の写真の左下の石の台の上に小さく人が写っていて、つい脳内で遠近法の修正をしてしまうのですが、そういう修正をしてしまうほどスケール感がおかしい。

地元の人にとっては当たり前のことがいろいろあるのかもしれません。

前日に九度山の居酒屋で店長とその仲間たち(客)が
「えっ高野山にさらっと立ち寄って帰る予定なの?無理無理。てか今回はほんのさわりだけで、次回とかその次でちゃんと見ればいいよ」
と言っていたノリが思い出されます。

おそらく小学校の遠足で行ったり、遠くから知り合いが訪ねてきたときに案内するのではないでしょうか、見どころが次々に紹介されます。

「まず門が、デカい」

奥の院に、重い石を持ち上げるやつがあって、心が清くないと持ち上がらないと言われている」

「井戸を除き込んで、もし自分の姿が映らなかったら不幸が起こると言われている」

「お地蔵さんがたくさん並んでいて、一体ずつ水をかけて拝む」

と、次々にアトラクションが挙がります。

ガイドブックを持っていなかったのですが、おかげで上記のアトラクションは全てこなせました。
(私は重い石を持ち上げられませんでしたが)

その中でも「さわりだけ」と言われた初心者の見どころは、奥の院だと思います。

奥の院は、名だたる戦国大名のお墓があちこちにあって、戦国ファンには面白いゾーンです。

ちなみに、ほとんどの戦国大名は、お骨そのものが全てそこに埋まっている訳ではなく、本体のお墓とは別に高野山にもお墓があるべきと考えた家来たちによって建てられたのだそうです。

戦国大名のほか、有名企業の社長さんののお墓などもあり、それはそれで見つけるのが楽しい、不思議な世界です。

・・・というお話を前の晩に九度山の居酒屋で聞くことができたおかげで捗りました。

彼らからすると
「そんなことも知らずに高野山へ行くの?!」
という感じだったと思います。

地元の方々の視点が分かるから、旅は楽しいんですよね。

という結論でした。

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写真は豚平焼、大阪でたまに見る豚肉と卵の鉄板焼です。

お好み焼き風の味付けで、九度山の居酒屋のはソースとマヨネーズたっぷり、さらに翌日分のおにぎりまでいただいたのでした。


チキンカツタワーへようこそ

チキンカツタワーに出会いました。
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手のひらの、指以外の部分くらいの大きさのチキンカツが6,7枚、重なっているものです。

チキンは柔らかくクセがなく、筋や脂も気にならず赤みと程よいバランスで、衣はもちろんサクサク揚げたてです。

それだけでも嬉しいのに、カツの一枚一枚に丁寧にソースがかかっていました。
ウスターとデミグラスの中間ぐらいです。

さらに、周囲にはたっぷりのタルタルソースが溜まっていました。
本チャンのソースの他に付いているとテンション上がります。

さらに、逆サイドには粒マスタード付きです。
味のアクセントになるしウエスタンな雰囲気も出ます。

さらに。お皿に乗っている付け合わせはキャベツの千切りに過ぎませんが、ドレッシングがオニオンベースでチキンカツによく合う。

これで800円。

チキンカツタワーというものに初めて出くわした訳ですが、いきなりハイレベルでした。

2人で1皿にしましたが、美味しいのでこれ1人1皿で行けたのでは、という感想です。

場所は、九度山です。

えっ、九度山

はい、あの真田ファミリーが関ヶ原に敗れて蟄居させられたという場所で、和歌山県にあります。

これまで日本国内でいろいろ訪ねてきたけれど、そういえば京都や大阪から南にぶら下がっているゾーンには行ったことないね、という理由からでした。

「なんで九度山?」

その、「なんで」がポイントでした。

我々は「なんとなく」という理由しか無かったのですが、他の人々にとってはあえて訪ねる理由が少ないようなのです。

昨年の「真田丸」でえらいことになったんじゃないですか?

とチキンカツタワーのお店のマスターに聞くと、たしかに去年は一瞬だけすごかったけれど、1年も経つともうドラマ放送以前とほとんど同じになってしまったそうなのです。

たしかにこの居酒屋さんは、客席で談笑していたおばちゃんがキッチンに入ったりするような地元に根付いたお店で、九度山の観光に来た人があえてこのお店に来たのは1年ぶりぐらいの勢いでした。

それで、できたての地元の柿を袋に入れてたくさんいただいたり、お店オリジナルの真田の掛軸などをいただく歓待を受けました。

ふっ、私が徳川クラスタなんて絶対言えない。

まあしかし九度山は、想像よりずっと開けていました。
森に囲まれている訳ではなく、人家が連なっており、余裕でWi-Fiもつながります。
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紀ノ川の対岸には橋本市があり、橋本駅からは電車1本、1時間ほどで大阪まで出られてしまいます。

だからこそ、町としての存在意義が揺らいでいるのだそうです。

ちなみに九度山高野山の麓にあり、高野山は女人禁制のため空海のお母さんが麓で暮らしていて、空海はお母さんに会うために1カ月に9回も山を降りたことから、九度山というのだとお店(とお客)の人々から聞きました。

真田家も、最初は高野山に封じ込められたのですが、女性も含めた家族みんなで暮らしたいと願い出てここに来たのだそうです。知りませんでした。。

九度山はこれからどうなって行くのか、どうすれば良いか私には分かりませんが、チキンカツタワーは立っていてほしいと思います。


鎌倉検定が終わりました。

2017年11月26日(日)、マラソンクラスタの方々におかれましては各地で激戦が繰り広げられる中、わたくしは鎌倉で微動だにせず、という訳でもないですが座って鎌倉検定を受けてきました。

 
鎌倉検定とは、鎌倉の歴史や文化の知識を認定する試験です。
たぶん、何かの資格になるとか就職に有利とかはないと思います。
 
私が受けたのは3級という、エントリーレベルの最下級です。
 
たぶん受かったと思うけど、落ちたら落ちたでネタになるのがブログのすばらしいところでこざいます。
 
何が言いたいかというと、このブログをお読みくださっている皆様におかれましては、今まで鎌倉の話にお付き合いくださりありがとうございました、ということです。
 
食べ物ブログのはずが歴史のことばかり話し始めて、戸惑われたかもしれません。
 
別のブログを立てようかとも考えましたが、そこまで文書を書くキャパもなさそうな気がして、まだ検討中です。
 
さて、お気楽な道楽検定ではありましたが、一応受験という形ですので、僅かながらもプレッシャーはありました。
 
今日からはもっと自由に本を読むぜ!
 
って早速購入したのが、『死してなお踊れ 一遍上人伝』っていうね。
 

また坊さんの話かーい!
 
一遍さんも、鎌倉時代に新しい宗派を立てた人です。
 
「踊り念仏」を唱えて鎌倉にも布教しようとしましたが、警備の人に追い返されてしまう、という鎌倉との関わりを持つ人です。
 
まだ鎌倉の話かーい!
 
うーん、知りたいことがまだ止まりません。
 
しかも、鎌倉検定が終わった後、その追い返された場所にできた一遍さんの時宗のお寺、光照寺を訪ねてしまいました。(写真は撮っていませんでした・・)
 
北鎌倉の、メジャーなお寺方面とは少し違った場所にあり、なかなか訪ねる機会も少なそうなお寺ではありますが、ひっそり感を自分で分かっている感が素敵でした。
 
また、その周辺は坂と家並みがノスタルジックな場所でした。
 
さて私にとって鎌倉とは一体何なのでしょうか。
 
好きなの?

べ、別に
 
今はたぶん、鎌倉という場所を舞台にあれこれ考えて生きて死んだお坊さんや為政者に興味があるのでしょう。
 
自分の脚で訪ねて場所を確認できる面白さがあるのだと思います。
 
11月26日、検定とは全く関係ないけどなんとなく大船に集まって飲んだ際の焼きトン串の写真をお送りします。
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みそ味おいしい。
 
 

懲りずに北鎌倉

こんにちは。ブログ迷走中です。

今回も鎌倉の話になってしまいました。

鎌倉のイメージの中心となる北鎌倉の禅寺ができたのは、日蓮が鎌倉にいた時代と重なっていることを知りました。

当時の鎌倉、一体どんなことになっていたのでしょう。

五代執権の北条時頼という人が禅宗に深く帰依して、鎌倉五山第1位の建長寺を建てました。

北条時頼は、かなり有能な執権という噂です。
乱を鎮圧し、政敵は潰しちゃう、だけど一方で何かを庇護して敵意が固まらないようにする。

幕府の統治システムを着々と整え、北条氏の支配基盤を強固にする。

辣腕を振るった一方で、信仰心が厚く、禅宗を広めるべくデカいお寺を創建する。

そんな大活躍の時頼ですが、突然31歳で出家します。

なんで出家したかって、明らかではないのですが、病気がちで自分の命は長くないものと思ったので、その後の体制を決めて既存のものにしようとしたのではないでしょうか。

そんなんで着々と事を進めてきたある日、

「狂った坊主が町の中で、政治と宗教の批判をずっとやってるんですけど」

っていうね。

そうです、日蓮の辻説法です。

このとき、最明寺入道こと時頼は、

「ほんと、やめてほしいんだけど・・・」

と思ったんじゃないかなって想像します。

そんで、「正しい仏教と、それに基づいた政治」みたいな書状が日蓮から届きます。

時頼は、出家してから隠密で諸国を見る旅に出るくらい好奇心があったらしいので、きっとその書状は熟読したことでしょう。

それで、しばらくしてから、時頼と日蓮の直接討論が実現します。

この時代にテレビがあったら空前の視聴率だったと思います。

日蓮「為政者の信仰が正しくないから、地震や日照りが起きて民がたくさん死んでいる。今こそ正しい教えに立ち返るべき」

時頼「(いや、地震や日照りの因果関係おかしくない?俺自身はすごい質素な生活して身も心も民衆のために尽くして来たんだけど)」

時頼「私は出家して禅宗を信仰しており、一方、今の将軍さまは真言宗でいらっしゃる。宗教が違ってもお互いに信仰を非難することは無い。それなのにあなた一人が他の宗派を攻撃する。特に、今この国を執りしきっている方の教義を亡国と貶めることこそ大逆ではないか」

日蓮「だからこそ申し上げているのです。亡国の教えを放置しては大変なことになる」

時頼「あなた一人だけの言葉を信じて、この国の全てと、さらに他の国々から伝わっている教えがひっくり返ると思うのですか?」

日蓮「ですから、話し合って真実を伝えようと」

話が平行線になると見た時頼は、討論の席を立ちます。

日蓮「待てぃ!」

最大の実力者に怒鳴る日蓮

周りで聞いていた人々はチビったか漏らしたと思います。

日蓮「命を懸けて真実を申し上げております」

時頼「(もういいよ)」

(両者席を立つ)

・・・これが、鎌倉時代に鎌倉で起きたワンシーンです(想像)。

こうして見ると、老練な保守系政治家と革命を志す若き僧侶の対決のようなイメージですが、なにげに日蓮のほうが5歳上でした。

病気がちながら禅宗に帰依して身体の限界から悟りを得ようとする時頼と、偉丈夫ながら文献に基づいた論理で真理を説く日蓮

静と動。

ビジュアル的にはハゲとハゲ。

鎌倉のお寺を訪ねて、本を読んでWikipediaを読んでまた鎌倉を訪ねるのを繰り返すと、イメージが新しく立ち上がってきます。

ところで時頼はこの討論の後、自らが直接日蓮に罰を与えることはありませんでした。

何か思うところがあったのでしょう。

そんな時頼が隆興させた禅寺が、今の鎌倉観光の目玉となっている、と考えながら巡る北鎌倉です。

建長寺は今日も人々が訪れ
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円覚寺は時頼の息子の時宗が開いて、外国人どんどん来る来る
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建長寺円覚寺の"山"の谷間にひっそり佇むのが明月院(あじさい寺)、時頼が息を引き取った付近の跡地に建てられたお寺です。
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時頼と日蓮が討論した場所は、鎌倉の町の中にあり、今や住宅地です。
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日蓮の辻説法の場所は、幕府跡に比べてしっかり残されていました。

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ざっくり歩き回り、小説を読み、Wikipediaを読み、また歩くのを何度か繰り返すと、
「ここがそれか」
「そういうことだったのか」
と、現地でも本の中でもネット上でもちょいちょい気がつくことがあったのでした。

あ、本日のおみやは日蓮の辻説法跡から徒歩で5分くらい、鎌倉の農協連即売所・通称"レンバイ"の中にあるパン屋さんのあんぱんです。
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なんと、あんこの中にクランベリーが入っており、モダンに美味しくなっています。

様々なおかげさまで美味しいものが食べられます。

本を読んだ翌日に場所を訪ねる。鎌倉 日蓮宗のお寺

 

鎌倉を勉強しようということで、山岡荘八の『日蓮』を読みました。前々回の記事でも少し触れました。

 
鎌倉について勉強するために私がこの小説に期待したのは、もちろん鎌倉を舞台にした大活躍だったのですが、この小説『日蓮』全1巻は、
「俺たちの戦いはこれからだ!」
みたいなところで終わっているんです。
 
物語の大部分は、千葉の小湊で生まれ育った若き日蓮の懊悩を描いており、鎌倉に来て幕府にケンカふっかけたあたりで終わります。
 
まあ、事情は想像しますけれども。
 
すなわち、当時かなりの高僧でも読み終えるのが難しかった法華経に基づいて日蓮が論駁しているため、それを描こうとしたら法華経を理解して裏を取らなければならないかもしれません。
さらに、他の経典も理解しなければならなかったのではないかと考えております。
 
うん、仕方ない仕方ない。
 
でね、日蓮にびっくり激怒した鎌倉幕府の周辺の人々の名前が小説の終盤にいろいろ出て来るのですが、彼らのその後が気になっておりました。
 
宿屋光則は、鎌倉幕府の官僚で、日蓮からの幕府批判の文書を執権に取り次ぐ役割だった人です。
 
小説では、取り次いだところで終わっています。
 
でも、なんで文書を取り次ぐだけの人が何度もフルネームで登場したんだろう?
しかも、宿屋ってマジ名字?
 
と気になっていました。
 
すると、小説を読んだ翌日に答えが目の前に現れました。
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お名前がそのままお寺の名前になっていらっしゃる。
 
宿屋さん、日蓮の文書に激怒した執権から、日蓮の弟子の日朗を捕らえる役目を仰せつかります。
 
自宅の裏山の牢屋に日朗を閉じ込めたのですが、やり取りを重ねるうちに感化されて改宗しちゃったのですね。
 
それで、自邸をそのままお寺にしてしまったと。
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お寺の裏山に実際にある牢屋です。
誰でも外側から見学できます。
 
光則寺は、長谷駅から大仏へ続く道の途中から逸れた場所にあるためそれほどメジャーなスポットではないかもしれませんが、歴史が垣間見える場所でした。
 
そのすぐ近くにある収玄寺も、元は北条一族の執事だった人が日蓮に帰依して庵を結んだ跡地なのだそうです。
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長谷からどんどこ西へ向かう途中でも日蓮の足跡がいくつか見られます。
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日蓮袈裟掛けの松は、腰越へ処刑されに向かう日蓮が袈裟を掛けたという松で・・・
 
上の写真の左側、えっ、小っさ!
 
と思いましたが、さすがに何代も生まれ変わっているそうです。
 
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日蓮が雨乞いしたら雨が降ったあたりと言われる石碑や池もあります。

 
腰越まで来ると、日蓮宗のお寺が複数ありました。
 
こうして見ると、鎌倉市の東の端である名越切通し付近に安国論寺があり、西の端にも日蓮宗のお寺、そして実は、藤沢市にギリギリ入ったところに「龍の口」という、日蓮の処刑場がありまたお寺もあります。
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ちなみに日蓮、この龍の口で首を切られる予定だったのですが、直前に何らかの奇跡が起こり、生き延びます。

 
鎌倉幕府に殴り込み、論理で説いて多くの人を納得させて、お寺はできるし聖蹟が残って今に伝わっているのを見ると、当時の圧倒的なパワーを思わずにはいられません。
 
そんな本日の食糧は、光則寺近くのドイツパン屋さんBergfeldのプレッツェルです。
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わーい、ビール飲みながら食べられるパンだよ。
 
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1番人気と書かれていたクルミとバターのケーキもいただきます。
 
飾りがなくて食材をギュッと詰め込んだ素材を切り分けただけなのがドイツらしいですね。
 
小町通りで団子食ってるだけでは済まない鎌倉、東西方向に歩くと日蓮のことが少し分かりました。