読むめし

口で咀嚼するたけでは足りず、観念でも食べ物を愛でようとする人間

韓国土産の謎の缶は、野菜と炒めて美味しいつぶ貝でした

前回まで鎌倉の話が続いたので、この辺でこのブログの基本に戻って食べ物の話をします。

先月から韓国へ赴任になった日本人に、韓国土産をいただきました。

ただし、買ってきた人も実際に食べたことはなく、周囲の韓国人に勧められたとのことでした。

曰く、
「野菜と一緒に胡麻油やコチュジャンで風味を付けて」
「バター炒めもいける」

で、その缶なのですが、イマイチ何が入っているのか分からない。
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ぜんぶ韓国語です。

今日び、スマホのカメラを向けると日本語訳が出るみたいなアプリもあるのかもしれません。

あるいは、PCの韓国語入力をONにして文字を打ち込んでGoogle翻訳で確認できるかもしれません。

それとも、韓国語を勉強しちゃうかい?

しかし、そのような悠長なことをしている場合ではありません。
まず食べたい。

缶に中身の写真もあるのですが、判然としません。
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チキンかな?
と思いました。
鶏皮とコラーゲン的なやつかな?

なるほど鶏皮と野菜炒めってあまり見たことないけど美味しそう。

などと想像しながら、スーパーでキャベツがメインのカット野菜袋を買ってきました。

缶を開けてみると、
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貝の水煮?

予想よりも遥かにカロリーが低そうです。
脂っけが一切ありません。

汁は甘辛で、貝の旨味がよく出た醤油的なものがベースのようです。

貝はつぶ貝のようなやつで、見た目も大きさもサイゼリヤエスカルゴによく似ていました。
しかし脂っけはありません。

予想よりヘルシーだったので胡麻油を多めにフライパンに敷いて、スライスした生姜とカット野菜を投入します。

なんとなく気分で缶詰の汁を半量入れて、コチュジャンも混ぜて蓋をして蒸し煮にすること7,8分。
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ビールをいただきながら待ちます。

火を止めて、さらに5分ほど蒸らして味をなじませます。
まあビールを飲んでおつまみをゆっくり食べていたからなんですけど。

できた。
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えー、とても美味しかったです。

貝の甘みと、じっくり蒸らしたキャベツの歯ざわり、とろける玉ねぎ、そしてコチュジャンの辛さが浸透し合っていました。

つぶ貝は20個くらいは入っていたので普通は2,3人前かもしれませんが、1人で完食してしまいました。

貝好きの人には嬉しい一品でした。

また機会が与えられたら、今度はガーリックバター炒めにしたいです。

もう一品、フレーク状の韓国海苔もいただきまして、明太子と九条ネギとともにうどんにかけたら間違いなく激ウマでした。
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缶詰も韓国海苔も、ネットで検索してしまいそうです。

→あった。やはり缶はつぶ貝でした。日本産のは最初から酒の肴としての味が付いているものばかりなので、この缶は韓国土産によさそうです。


鎌倉時代に裏切られて殺された人ランキング

相変わらず鎌倉時代の勉強をしております。

ランキングなんて不謹慎かもしれませんが、多くの人が悲しい亡くなり方をしているようなので書いてみました。
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⚫️番外編
源の一族

源義経: 間違いなく辛い裏切られ人トップでしょう。兄の頼朝に追われ、奥州で追い詰められて自害したとされています。

源範頼: この人も義経と同じく頼朝の弟なのですが、義経の死後に嫌疑をかけられ修善寺で暗殺されました。

源頼家: 頼朝と北条政子の息子で、幕府二代目征夷大将軍です。が、北条家と対立し、修善寺に幽閉された挙句、入浴中に暗殺されます。

源実朝: 幕府三代目の征夷大将軍で、頼家の弟です。実の兄(頼家)の息子すなわち甥に「父の仇!」と言われて、鶴岡八幡宮で殺されてしまいます。

公暁: 「父の仇!」と実朝を暗殺した、頼家の息子です。暗殺を実行してから程なく彼自身も北条氏に殺されます。
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・・・なにこれ、鎌倉幕府征夷大将軍連続殺人事件ですか。

番外編だけでも偉い人の死屍累々となってしまいました。

やはりランキングは止めておきましょう。
源さん以外の人々を列挙します。
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⚫️比企能員(ひきよしかず)
頼家の乳母が比企尼といって、頼朝が不遇の時代から世話をしてくれた人なんですね。
その縁で能員さんは頼家の側近となり、武功を挙げるし娘を頼家に娶せたりしました。こうして勢力が大きくなると、北条氏と対立する形となり、一族もろとも殺されてしまいました。

⚫️梶原景時 (かじわらかげとき)
義経を陥れた、いわゆる「 佞弁の人」として後世に残ってしまいます。
元々は神奈川近辺に住んでいた平氏系の一族だったのですが、何を思ったかピンチの頼朝を匿って以来、信頼の厚い部下となります。
決して能力の低い人ではなかったのですが、それゆえか義経と作戦で対立してしまいます。
時代の急激な転変であちこち敵ができてしまって、「じゃあもう京都で仕事探すか」って東海道を西へ向かう途中で、恨みを持った人に殺されてしまいます。
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⚫️畠山重忠 (はたけやましげただ)
血筋は平氏ながら、途中から頼朝の味方になり鎌倉幕府成立に寄与した武将。
血筋のせいか、たびたび謀反の疑いをかけられるが、本人は至って泰然としていました。
しかしついに息子が北条方の恨みを買ってしまい、一族討滅されます。
だが生前の畠山重忠の人柄を知る人々からの信頼は篤く、結局殺した側も処罰されます。

⚫️和田義盛 (わだよしもり)
難しいなあこの人。
梶原景時を失脚させる署名に連座し、比企一族を討滅するときには北条方で比企さんを滅ぼしました。畠山重忠に謀反の疑いをかけたときにも北条方で畠山さんを滅ぼしました。
だけど、結局最後は北条氏の挑発に乗って戦いを仕掛けて殺されてしまいます。
尚、和田義盛の最期の激戦地が「和田塚」で、江ノ電鎌倉駅の隣の駅になります。
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⚫️三浦泰村 (みうらやすむら)
源平合戦のさなか、ハマの番長こと(?)三浦大介義明が横須賀の砦で壮烈な戦死を遂げてから数十年、孫の泰村の代には鎌倉幕府を支える重要な一族となっていました。
しかし、大きくなったが故にこれも北条氏の策略により討滅されてしまうのです。

⚫️大江広元 (おおえひろもと)
ほとんどみんな死んでしまったからこの人も死んだかなと思ったけど、78歳まで生きたようです。
もともと京都の官吏で、鎌倉幕府の始まりに前後して鎌倉へやって来て、政策に手腕を発揮しました。
朝廷との関わりが深く、バランス感覚もあったのでしょう。
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今回は、フリー素材のおにぎりをブログに散りばめてみました。

彼らの魂に安らぎあれ。


鎌倉を勉強中。お寺と花編

前回の記事では、御所の跡や木造建築についてつい考えこんでしまったので、今回はパッと、花の写真を載せておきます。

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ハギがもりもりしていました。

宝戒寺は鎌倉で「萩の寺」と呼ばれていて、9月から10月が見頃なようです。

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お寺ができてから600年や700年が過ぎれば、花も集積するのでしょう。

宝戒寺は1335年、あの足利尊氏が建てたのだそうです。

というのも、鎌倉幕府南北朝のゴタゴタのうちに滅亡してしまいまして、宝戒寺は北条家の屋敷跡だったようなのです。

北条さんはこの近くで集団でハラキリして鎌倉幕府が終わったのです。

南北朝の主人公・後醍醐天皇 with 足利尊氏が、弔いのために建てたお寺だと言われています。
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武家の屋敷は無くなるけれど、お寺は残る、やつもある。

花は美しく、訪れる人も多く、しっかり弔われているのではないでしょうか。

ところで、鎌倉にはたくさんのお寺がありますが(百あまりらしい)、観光客が訪ねる有名なお寺と、そうでもない普通のお寺と、そもそも一般公開していないお寺があるようです。

有料公開でもバカ高いところは無く、維持費と思われます。
儲けるためではないけれど、できるだけ多くの人が来て、仏の教えを理解したり感じたりしてほしい、というスタンスなのかもしれません。

そうなると特に昨今、一般の人々を呼び込むには、フォトジェニックであることが重要になってきたのではないでしょうか。

たとえば報国寺は、鎌倉で「竹の寺」として有名です。
もしかしたら、日本人より外国人の間で有名なのかもしれません。

どうも、特に西洋の人は竹の林に東洋的なものを感じるらしいのです。
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一方、明確な植物オブジェクトはなかったけれど、静謐な佇まいが印象的だったのは覚園寺です。
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こちらには外国人の姿はなく、日本人が何人か、木のベンチに腰かけたりしていました。

というのも、こちらのお寺は定時に境内を案内するサービスがあるのです。
所要時間50分とのことで、この日は参加しませんでしたが、時間に余裕を持って参加したいものです。

覚園寺は、元寇が二度と来ませんようにと願いを込めて13世紀の末に整備したお寺だそうです。

あと、初秋に綺麗だったのは海蔵寺かな。

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門の前に萩がブワーなって、掻き分けて入るものでした。

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本堂の前の花々も雨上がりの青空に映えました。

ここは鎌倉時代に大きなお寺があったらしいのですが幕府滅亡とともに消失し、のちに上杉氏が再建したそうです。

お寺の一つ一つに、鎌倉時代からの歴史と、今目に見えている花や石や、見えにくい何かを発見できたら良いですね。

鎌倉を勉強中。意外といろいろ残ってない編

鎌倉のことをあまりにも知らなくてヤバいと思いました。

前々回の記事にも書いたのですが、
・大仏があるお寺の名前を知らなかった。
・観音様とは何かを外国人に説明できなかった。
鶴岡八幡宮小町通りと、円覚寺建長寺しか知らない。その成り立ちを知らない。

という状態なので、勉強を始めました。

折よく「鎌倉検定」というローカル検定が11月の終わりにあることを知り、申し込んでみました。

検定の公式テキストをざっと読んでみると、八幡宮小町通りの他に様々な跡地があることが分かりました。
しかし、その多くは推定であるのが意外でした。

鎌倉幕府の御所は、鶴岡八幡宮のすぐ東隣にあったらしいのです。
しかしそこは現在、普通の住宅地です。

源頼朝が造った政府の建物は跡形もなくて、後世の人がおよその場所を推定しているのです。

現代の感覚だと、大事な場所は保存されると思うのですが、時代によってはそうとは限らないのですよね。
本気で昔は何があったのか分からなかったり。

鎌倉は、幕府ができて繁栄して、幕府滅亡して、そのあとは室町時代で「京都政権 鎌倉出張所」みたいな扱いがあったけど、室町幕府が崩壊するにつれて存在感を失ったのですね。

意外と東海道から外れた場所にあって、急峻な丘に山に囲まれて海にしか開かれていない場所なので。

そこにリゾートを見出したのが江戸時代と昭和の初期だったらしいです。

そんななので、幕府ができて町が栄えてから現代までの間にけっこう断絶があるようです。

というわけで、実際に訪れて、幕府の庁舎の跡や要職の人の邸宅跡を見てみました。
よく見ると、カッコいい石碑が立っています。

頼朝が建てたといわれる御所は、住宅地の中にあり、かろうじて現在は小学校になっているために「まあアリかな」と思える風情でした。
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頼朝の死後、微妙に数百mほど庁舎を移したようでその場所は一応小さな神社がありますけど、庁舎が1m四方な訳ありません。
周りは住宅地です。
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そのあともう一回庁舎の移転が数百mあったらしいのですが、その跡は住宅です。多少和風な風情はあるのですが。
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木造建築が燃える理由は

・失火
・放火
・落雷

が考えられます。
鎌倉は賢そうな人が住むイメージがあり、うっかり燃やしちゃったりしないのでは?と思いますが、武士の世を極端に表現すると

「あいつムカつくからブッ潰す」

の論理で動いていた部分もあるのですよね。

そんなことを思った鎌倉お勉強散歩でした。

ふらりと、小さなパン屋で米粉ベーグルを買いました。
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うーん、ベーグルというよりリング形の普通のパンのような食感でした。

お店も旧跡も、ちょいちょい細かいやつを見出せたら楽しみが広がりそうです。

伊勢佐木町の果てに何があるのか

横浜の関内駅付近から一本道で伸びる歩行者天国伊勢佐木町はけっこう長く続いています。

そういえばどこまで続いているのか、確かめたことはありませんでした。
だって奥へ進むにつれてあやしさの度合いが濃くなりますし。

そこで今回は、道が続く限り進むことにします。

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おなじみ(?)、関内駅側の入口からスタートです。

ゆずがデビュー前から路上ライブをやっていた松坂屋は2008年に閉店し、今や有隣堂伊勢佐木町本店だけが、「昔からある店」のようです。
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地元関連の書籍が充実していて、心の拠り所となります。

関内駅寄りのエリアは人通りの最も多い場所だと思うのですが、上記以外はチェーン店が入れ替わり立ち替わりの状況です。
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時を経て、観光客よりも地元の人のための街になった感があります。

チェーン店でも何でも、とにかくさびれず活気があるのは良いことです。

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チェーン店の並びの中に、カジュアルな中華料理屋がさり気なく混ざったりします。

ちなみに伊勢佐木ストリートの一本道を、左右どちらかに少しでも逸れますと、途端にあやしい世界になります。
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横の道には目をつぶりながら伊勢佐木町をまっすぐ進むと、しかし結局大きな道路を渡るにつれて意思疎通が難しそうな世界になって行きます。
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チェーン店も健在ですが、個性派のお店が見受けられるようになります。
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人通りはだいぶ減ります。
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50円のゲーセン「ピロピロ」、こわいけど、入口は物理的にとてもオープンです。
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「まーじゃんかふぇ」とか、随分カジュアルです。
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その先の小洒落た本格イタリアン、安くはないけど、以前訪ねて美味しかった。
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さらにその先、ストリートの両側にある富士見川公園を越えると、いよいよ居住エリアらしくなります。
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この奥に何かを期待する人はほとんどいないと思います。

おや、お三の宮通り?
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道は一本ですが、通りの名前が変わったようです。

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だいたい居住物件で、たまに個人商店が点在していました。

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山王橋で、大岡川を渡ります。
それまで大岡川は通りと並行していたのですが、川がカーブしたのですね。

いよいよアパート・マンションの視界から
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交差点の向こうで、ついに道が途絶えました。
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お寺の門と、その後ろに鉄道の高架があり、道はもうありません。

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道はないけど、お寺の門の上は京急の線路で真下に駐車場があり、その向こうにお寺への階段がありました。
なんだこの都市計画は。

既に一本の通りとは呼べない雰囲気だけど、お寺の門の脇で線路をくぐり、道なりに進むと、京急本線の南太田駅に着きました。
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駅前の小ぢんまりとした広場と、それを囲む小さなお店は、ちょっとした異世界感がありました。

昭和な喫茶
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一見さんの難易度が高いラーメン屋
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そして唯一お洒落なドイツパン屋
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ドイツパンを買って食べたところ、とても美味しかったです。
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プレッツェルクロワッサンは、バターの風味芳しく、皮の風味香ばしく、食感はしっとり。
何度も鼻にくっつけて嗅ぎました。


というわけで関内駅から2,3km、伊勢佐木町の終着はそれなりに素敵な小天地で、よかったね。